【検証・コミュニティー再生】いわき 分断の「壁」乗り越える

 
遠藤さん(左)と藁谷さんはかつて互いを分断していた道路を前に笑顔で語り合う=いわき市小名浜

 東京電力福島第1原発事故による双葉郡からの避難者が暮らす県の復興公営住宅と、東日本大震災の津波で被災したいわき市民が住む市の災害公営住宅。いわき市小名浜に道路一本を隔てて隣り合う場所がある。

 「以前は、道路の間に壁のようなものがあったんだよ」。市営の永崎団地の自治会長、藁谷鐵雄(79)は、被災者同士ではあるものの、二つの団地の間にわだかまりがあったと振り返る。今では住民同士が頻繁に行き来し、あいさつを交わす。誤解やあつれきを、どのようにして乗り越えたのか。

 「県営の原発被災者は賠償金をもらって、手厚い支援を受けている」。県営の下神白(しもかじろ)団地の自治会長、遠藤一広(69)は入居当初、市営団地の住民からそのように見られていると聞いた。直接言われた住民こそ少なかったが、うわさはじわじわと広がっていった。ほぼ同時にできた二つの団地。住民同士が言葉を交わすことはほとんどなかったという。

「催しやってみれば」

 「隣同士なんだから一緒に催しをやってみれば」。交流が始まるきっかけは、神戸市から訪れたボランティアの提案だった。自治会同士で話し合い2016(平成28)年11月に合同で祭りを企画した。それぞれの集会所を会場にカラオケ大会や出店を開いた。県や市の支援担当者、ボランティアもイベントを企画して住民に交流を促した。

 縮まった距離は次の一歩につながる。翌年の17年春に自治会同士の集まりで思いをぶつけ合った。「県営の人は(市に)税金を払ってないでしょ」「住民税の代わりに、国から私たち1人当たり4万円超のお金が市に入っているよ」。本音で話し合うことで偏見はなくなっていった。藁谷も「原発被災者は故郷に住めなくなっている。補償は当たり前」と受け止められるようになった。

 その後、遠藤たち県営の住民がイベントの補助申請の方法を教えたり、藁谷ら市営の住民が地元の情報を伝えたりと、頻繁に連絡を取り合うようになった。企画したイベントに招待し合い、集会所で行うカラオケ教室やお茶会などに団地を越えて参加する住民も増えた。

 「交流自体を嫌う人もいるので全員ではないかもしれない。それでも壁はなくなった」と藁谷。富岡町から避難する遠藤は故郷に戻る選択もあるが、「いわきに住む決断をした場合、住むのはここ(下神白団地)だ」と言い切る。住民同士の絆が強まり、団地が「居場所」となったからだ。

 「この人がいたから仲良くなれた」「それはお互いさま」。かつて分断の象徴だった道路を越え、二人は笑顔を見せた。近くて遠かった二つの団地は、互いに支え合うコミュニティーになった。(文中敬称略)

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 県営住宅「下神白団地」 原発事故で富岡や大熊、双葉、浪江の4町から避難してきた人が入居する「復興公営住宅」として集合住宅6棟、200戸分が整備された。入居開始は2015年2月。現在は、19年の東日本台風(台風19号)で被災したいわき市民も入居している。

 市営住宅「永崎団地」 津波被害で住まいを失ったいわき市民が入居する「災害公営住宅」として整備され、15年10月から入居を開始。集合住宅5棟(165戸)と、戸建て住宅24戸で構成される。