【トリチウムとは】修復される「DNA」...濃度、被ばく量考慮

 

 「トリチウムでつくDNAの傷一つ治せなかったら、人類は地球上にいない」。水戸市の茨城大で理学部長の田内広教授(57)=放射線生物学=は語る。DNAを含む細胞は、放射線などで常に傷つけられているという。

 ヒトの体内には、トリチウムよりも強い放射線を出し、自然にもある放射性物質が取り込まれる。そして1本の放射線により、細胞が何個も傷ついている。

 日本で生活していると、自然にある放射性物質から年間平均で約2.1ミリシーベルト被ばくする。この場合、DNAは年間2個程度、切断されている。そうした現象が体内で常に起きている。また、呼吸で取り込んだ酸素が変化してできる活性酸素では、一つの細胞に1時間で約1000カ所の傷がつく。夏の海水浴で起きる日焼けでは、太陽からの紫外線で皮膚の細胞が1時間に約1万個も傷つけられているというのだ。

 2018(平成30)年8月の公聴会では、トリチウムが「ヘリウム3」に変わることで遺伝子の構造が変わり、人体に悪影響を及ぼすのではないかと不安視する意見が出た。この変化についてはシリーズ第2回で書き、放射線のエネルギーが弱いことにも触れた。

 極端に高濃度のトリチウムを摂取しない限り、DNAが傷つく程度は、むしろ活性酸素などによる方が大きいと田内氏は指摘する。

 さらに重要なことがあるという。理学部長室のホワイトボードには「DNA Repair」(DNAの修復)と書かれたポスターが貼られている。細胞の持つ修復作用。「ヒトの細胞は常に傷つき、壊れ、修復されている」

 活性酸素や放射線などで傷ついたDNAをそのまま放置すると、遺伝子の突然変異やゲノム不安定を誘発し、発がんの原因になる。だが、傷ついたDNAはそのまま放置されるわけではない。細胞の持つ修復酵素が、のりやハサミ、ホチキス、コピー機などと同じような役割を果たし、DNAは修復、複製されているという。

 1個の細胞が傷つき、不運にも健康に影響が出てしまうことが全くないとは言い切れない。しかし、「確率は相当低い。やはり放射性物質の濃度や被ばく量で考えることが必要」と田内氏は話す。

 科学的理解が『不可欠』 ヒト、環境への影響

 「トリチウムでヒトが死亡した事例はあるのか」。トリチウムがヒトに与える影響について濃度や被ばくの量で考えることの重要性を説く茨城大理学部長の田内広教授に記者が聞いた。

 「ある。ただし、ものすごい被ばく量の事例」。田内氏はそう言いながら、学部長室の机から資料を探し出し、記者に手渡した。タイトルは「トリチウムによる健康影響」。日本放射線影響学会放射線災害対応委員会が昨年11月にまとめたものだ。

 それによると、1960年代に欧州で、ヒトがトリチウムを長期間、口から摂取した影響で、血液の病気により死亡した事例が報告されている。被ばく事故が起きたのは、時計の文字盤にトリチウムを含む夜光塗料を使っていた二つの時計製造施設だった。

 事故の推定被ばく量は、一つが7.4年で3000~6000ミリシーベルト、もう一つが3年で1万~2万ミリシーベルト。がんリスクが出てくるとされる最低の被ばく量「しきい値」は100ミリシーベルトだが、両事例の被ばく量はしきい値の30~200倍。「議論されている福島第1原発のトリチウム水とは桁が全く違う」と田内氏は話す。

 資料には、トリチウム水をマウス約550匹に飲ませ続けた実験結果も載っていた。実験は、マウスが1リットル当たり1.4億ベクレルという高濃度のトリチウム水を生涯飲み続けても、がんの発症率は自然発症率の範囲内に収まるという分析をはじき出していた。

 田内氏は、ヒトを取り巻く環境面からも被ばくの影響を考察する。地球上で自然に発生するトリチウムは年間約7京(けい)(京=兆の1万倍)ベクレル。これに対し、海外の核の再処理施設からは同1京ベクレル以上、国内の原発全体からは同約380兆ベクレル(福島第1原発事故前の5年平均)のトリチウムが環境中に放出されてきた。廃炉作業が続く福島第1原発のタンクで保管されているトリチウムの量は昨年10月末現在、約856兆ベクレルとされている。

 大気圏内の核実験や水爆実験では、1945~84年の39年間に1.86垓(がい)(垓=兆の1億倍)ベクレルが地球上に拡散されたと推定されており、当時は地球上のトリチウムの量が今よりも桁違いに多かったという。

 「それでも世界中の多くの人たちががんで亡くなったと科学的に証明された事実はない、ということは、ヒトは遺伝子を修復し生きているということ」と田内氏は語る。トリチウムによる健康影響を不安視する声が根強い。しかし、田内氏の説明を基に考えると、福島第1原発のトリチウムの量を環境中に放出することが科学的に危険水準にあるならば、地球はすでに大変なことが起きているはずでは? という素朴な疑問が生じる。

 放射線などで傷ついたDNAを修復してヒトは生きていることや、福島第1原発のトリチウムが環境に与える影響が、人々に科学的に理解されれば、風評は起きないのではないか。政府の小委員会は10日、45ページに及ぶ報告書をまとめ、風評被害を抑える必要に相当の行数を割いて政府に対策を求めた。理解してもらう相手は国民にとどまらない。「復興五輪」の名の下に、世界が注視している。