【エールのB面】古関メロディーと野球 あの日あの時...鮮明に夏の記憶

 
「古関メロディーに魅力を感じる」と話す元ロッテ監督の八木沢荘六さん(左)と本県出身の”絶好調男”の中畑清さん

 朝ドラ「エール」のモデル・古関裕而の代表作といえば夏の甲子園(全国高校野球選手権大会)の大会歌「栄冠は君に輝く」。阪神甲子園球場(兵庫県)を舞台とした夏の風物詩を彩る。朝ドラでも描かれているように古関は野球にちなんだ名曲を数多く残した。「栄冠―」の誕生秘話や7月にあづま球場(福島市)を訪れた元プロ野球選手らに聞いた古関メロディーへの思いを紹介する。

 中畑清さん

 「雲はわき 光あふれて~」。夏の甲子園の大会歌「栄冠―」の作曲者や作詞者は知らなくても、軽快なメロディーを聞けば野球を思い起こす人は多いはず。人によっては夏の記憶が鮮明によみがえったり、甲子園の名勝負を思い浮かべたりする。

 「『栄冠は君に輝く』は最高だよね。特に最後の『君に輝く~』のフレーズがいいね」。鼻歌交じりでそう語るのは、巨人の中心打者として活躍し、横浜DeNA監督も務めた矢吹町出身の中畑清さん(66)。「曲を聞くだけで元気が出る。甲子園球場や球児の入場行進の風景が思い浮かぶんだ」と声を弾ませる。

 中畑さんは安積商高(現帝京安積高)から駒沢大に進学。日米大学野球選手権の日本代表に選出されるなど活躍し、巨人に入団した。「甲子園を目指した高校時代はよく(「栄冠―」を)歌った」と振り返りつつ「当時から俺は歌にはうるさかったからね。野球は趣味で、歌が本業だから」とおどけた。

 古関について「福島が生んだ大作曲家」とたたえる中畑さん。「古関さんは野球に対して最高の功労者じゃないかな。母校の矢吹小、矢吹中の校歌も古関さんの作曲というつながりもある。同じ福島出身者として誇りに思う」と語る。

 10日に甲子園球場で開幕する「甲子園高校野球交流試合」には、本県からは磐城ナインが出場する。「勝ち負けは二の次、三の次。野球は人間教育で、勝負以外から学ぶことの方が重要」と中畑さん。「磐城には今年しかない特別な甲子園で、目いっぱいプレーを楽しんでほしい」と力強いエールを送った。

 八木沢荘六さん

 古関が作曲した野球関係の曲は「栄冠―」以外にも、「巨人軍の歌(闘魂こめて)」や「阪神タイガースの歌(六甲おろし)」、早稲田大の応援歌「紺碧の空」など名曲ばかりだ。

 「古関さんは私たち野球人と同じ扱いを受けてもいいほどの人だよね」。日本プロ野球OBクラブ理事長で元ロッテ監督の八木沢荘六さん(75)は古関の野球への功績をそう評する。八木沢さんは、実は昭和歌謡が大好きで、朝ドラ「エール」を楽しみにしているという。

 史上13人目の完全試合達成者という輝かしい経歴。だが「栄冠―」を聞くと作新学院高(栃木県)3年の苦い夏の思い出がよみがえる。八木沢さんらを擁した作新学院高は1962年に「春の選抜」と「夏の甲子園」を制し、史上初の春夏連覇を成し遂げた。

 「せっかく夏の甲子園出場を決めたのに、赤痢で出場できなかったんだ。『栄冠は君に輝く』で入場行進した開会式までは何でもなかったんだけど急に症状が出たんだよ」。八木沢さんはその後、8日ほど隔離され、3回戦からベンチ入りしたがマウンドに上がれなかった。

 「チームはどんどん勝ち上がっていく。自分は病床で野球中継を聞くだけ。お先真っ暗な感じ。この悔しさをバネに、早大で野球に打ち込んだ」。早大では古関の出世作「紺碧の空」と出合う。「紺碧の空はいい歌なので勇気をもらったな。試合に勝ったときには応援団の指揮でみんな一緒に歌う。古関メロディーに感謝だね」と目を細めた。

 八木裕さん

 「選手にとって応援は必要不可欠。コロナ禍での無観客試合を見て、応援のありがたさを再確認した」と語るのは、阪神で17年プレーし「代打の神様」と呼ばれた八木裕さん(55)。阪神ファンが必ず歌う「六甲おろし」について「勝ったときにはファンが歌ってくれる勝利の象徴だ」と現役時代を振り返った。

 八木さんは岡山東商高(岡山県)時代、岡山大会決勝で敗れ甲子園出場を逃した経験がある。思い出の「栄冠―」や「六甲おろし」などが古関メロディーだったことを知り、「いずれも素晴らしい曲。さまざまな野球関係の歌を作ってくれた古関さんをもっと知りたくなった」と語る。

 マウンド立ち曲想練る

 今もなお多くの人々の心を打つ「栄冠は君に輝く」は戦後の1948年に作られた。学制改革に伴い、現在の「全国高校野球選手権大会」に改称され、第30回大会という節目だったため、主催者の朝日新聞社が大会歌を作ることを決めた。

 同年7月に作曲を依頼された古関は甲子園球場などを見学して曲想を練った。後に自伝で「無人のグラウンドのマウンドに立って周囲を見回しながら、ここに繰り広げられる熱戦を想像しているうちに、私の脳裏に、大会の歌のメロディーが湧き、自然に形づけられてきた。やはり球場に立ってよかった」と述懐している。

 戦時歌謡を多く作曲した古関は若者が自分の歌を聞き戦地へ向かったことに苦々しい思いを抱いた。一方で「栄冠―」のメロディーは明るく軽快で、戦後の重い空気を吹き飛ばす力があった。古関が球児ら「若人」に希望を託したのかもしれない。レコードは本宮市出身の伊藤久男の力強い歌声で吹き込まれた。

 第30回大会から「栄冠―」は歌い継がれている。スポーツソングの名手とされた古関だが、スポーツ全般には興味を示さなかったようだ。だが母校の福島商高が甲子園に出場したときは食い入るようにテレビを見ていたという逸話が残る。

 【もっと知りたい】歌詞の誕生にもドラマ

 「栄冠は君に輝く」の歌詞には、野球を愛する純粋な気持ちと、球児を応援する激励の思いがあふれている。作詞は石川県能美市(旧根上町)出身の歌人加賀大介(1914~73年)。歌詞の誕生もまたドラマが詰まっている。

 加賀は幼少から野球に熱中したが、16歳のときに草野球で足を負傷した。このけががもとで骨髄炎となり右脚膝から下を切断、野球を断念。その後は詩や短歌の創作に力を入れた。33歳のときに朝日新聞社が大会歌を公募し、約5千編の中から加賀の歌詞「栄冠は君に輝く」が採用された。

 だが長らく作詞者は妻の道子さんだった。金目当ての応募と言われるのが不本意で、婚約中の道子さんの名前で応募したためだ。初演奏から20年後の1968年、加賀は真相を明かし、以降は作詞者に「加賀大介」と記されるようになった。