【エールのB面】波乱の道、歌とともに 伊藤久男の古里・本宮を歩く

 
伊藤久男の生家である伊藤家。江戸時代の奥州街道に面した一等地にある

 第15週から戦争を描いてきた朝ドラ「エール」は16日までの第18週で終戦を迎え、戦後編が幕を開けた。今後は主人公裕一(窪田正孝さん)が音楽への自信を取り戻し、活躍の場を広げていく。モデルの作曲家古関裕而と組んで名曲を届けるのは本宮市出身の歌手伊藤久男(1910~83年)だ。伊藤の戦時中の逸話を交えながら、本宮にあるゆかりの場所を紹介する。

 「伊藤君の歌唱に惚(ほ)れ込んだ。この人なら私の曲を十分に生かしてくれる。完璧な表現力を持つ得難い歌手」。古関は「交友三十数年」と題した寄稿文でこう記す。古関や野村俊夫と共に「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれ、情熱的な歌声で昭和歌謡界を支えた伊藤の生涯は興味深い。

 伊藤について「伊藤久男生誕100年記念誌」が詳しい。1910(明治43)年、本宮町(現・本宮市)生まれ。本名は四三男(しさお)で、これは生年の明治43年に由来する。芸名の「久男」も「しさお」をもじった。愛称は「チャーさん」。名付けは妹で、兄を意味する「あんチャー」からきている。

 農学校に転校

 伊藤家は江戸時代から町の世話役で大地主。父の弥(わたる)は本宮町長や県会議員を務めた。裕福な家に育ち、本宮尋常小時代からピアノを習い、歌もうまく、学芸会では独唱を披露した。自宅の裏山で美声を響かせ、近所の人が「よっぽど歌が好きなんだ」と感心していた。

 跡取りの兄幟(のぼり)は音楽の道に進むことに反対した。将来は伊藤家が営む農園「百果園」の経営を弟に任せようと、旧制安達中(現・安達高)から岩瀬農学校に転校させている。百果園は「花と歴史の郷 蛇の鼻」として公園化された。父弥が別荘として建てた蛇の鼻御殿は登録有形文化財に登録された。放送に合わせ、11月30日まで写真展が開催中だ。

 兄幟も本宮を代表する人物で20代から本宮町議、40代から県議を務め県議会議長に就任、衆院議員にも当選した。父と同じく官選の本宮町長を務めた。また、兄幟の次男の故備文(まさふみ)さんも本宮町長を5期20年務めた。

 生家は現在、ライ麦を使ったドイツパンの店「ハルツ」を営む。社長は備文さんの長男仁(ひとし)さん(65)。昨秋の東日本台風による浸水被害を乗り越え、今年4月に半年ぶりに営業を再開した。「エール」の放送に合わせ、伊藤久男をテーマにした商品も販売する。その名も「チャーさんのクッキー」(350円)と「チャーさんのパウンドケーキ」(300円)。店には「エール」ファンが訪れる。仁さんは「多くの人に『エール』を届けたい。伊藤久男の功績を伝えるきっかけになれば」と話した。

 丸刈りで中断

 伊藤は岩瀬農学校を卒業後、東京農大に進んだが音楽の夢を捨てきれなかった。1歳上の古関の紹介もあって農大を退学し帝国音楽学校に進む。古関の妻金子(きんこ)と同じ声楽科で学び、何度も古関宅を訪れイタリア歌曲を勉強した。伊藤は大の酒好きでこの頃から夜は屋台で飲んでいた。

 農大を退学したことで生家からの送金は止まり、生活は苦しくなった。友人に誘われてコロムビアで囃子(はやし)を吹き込むアルバイトにいくようになった。古関から「クラシックよりポピュラーな歌を歌った方がよい」との助言を受け、コロムビア歌手募集に応募して合格した。この頃の芸名は「宮本一夫」で野村俊夫が名付けた。本宮を逆にし、本名・四三男の4から3を引いた『一』と、男を表す『夫』を付けたという。

 コロムビアとは1933年に専属契約を結んだが、人気歌手への道のりは平たんではない。ヒット曲が生まれず、長い下積み生活を送る。35年から芸名を「伊藤久男」と名乗り、37年に古関作曲の「露営の歌」で注目されるが、多くの男性歌手陣の一人。認められるのはまだ先で、40年の古関作曲、野村作詞の「暁に祈る」などで人気に火が付き、「海行かば」などの戦時歌謡でスター歌手の地位を確立した。慰問団に参加した際、マイクを使わずに歌い、将兵たちが涙した光景を見て「歌手になってよかった」と痛感したそうだ。

 伊藤は43年に本宮に疎開する。召集令状が来て宇都宮連隊に入営するがすぐに除隊された。痔(じ)の悪化、歌謡の実績から重要用務者として軍籍を解かれた、の二つの説がある。伊藤の出征を本宮駅で見送った女性の思い出によると、伊藤が「暁に祈る」を熱唱し見送る人々を感激させた。

 本宮で簡閲点呼(在郷軍人の定期点検)があったとき、将校が長髪の伊藤を見て「けしからん」と頭を丸刈りにした。伊藤は当時、軍が関わる映画「愛馬行進曲」に出演中のため、撮影が中断。将校は軍から逆に怒られて外地に飛ばされた。

 疎開中はレコード吹き込みのたびに上京し、地方での演奏活動を続けた。終戦は演奏旅行先の山形で迎え、本宮に帰った。戦時歌謡を歌った責任から「歌手生活もこれで終わり」と涙したという。暗い気持ちから逃れるため酒におぼれた。消毒用アルコールまで飲み「再起不能」と言われた。

 空前のヒット

 伊藤は戦後、歌手活動を忘れることができず単身上京して再起を図った。49年には高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」(古関作曲)を堂々と歌い上げ、50年には「イヨマンテの夜」(古関作曲)が空前の大ヒット。その後も「君いとしき人よ」(古関作曲)や「あざみの歌」「数寄屋橋エレジー」(古関作曲)などで多くの人々を魅了した。古関は伊藤の歌唱について「山田耕筰先生も『レコード歌手に彼以上の者はいない』と絶賛した」とたたえた。

 「ここが久男叔父が暮らした部屋。そしてこれが疎開のため東京から持ち帰った衣装ダンス」と教えてくれたのは備文さんの妻エキさん(91)。伊藤はたびたび帰郷し、親戚や同級生などと大宴会を催した。「台所は大忙しで準備が大変。好物はそばや田舎料理。ニコニコと満足そうに食べた。豪放な性格で大変にぎやかだった。県内で公演がある前日に宿泊した際、朝から発声練習をしていたこともあった」と振り返った。

 伊藤家の分家で、日本酒「大天狗」で知られる「大天狗酒造」(同市)。「エール」には伊藤がモデルの「佐藤久志」(山崎育三郎さん)が登場しており、放送に合わせて伊藤の写真をあしらった限定ラベル純米吟醸酒と、伊藤と古関の写真をラベルにした純米大吟醸酒を販売している。社長の伊藤滋敏(しげとし)さん(65)は「本宮が生んだ偉大な歌手伊藤久男と、古関裕而との友情に注目が集まってほしい」と話した。

 同酒造のすぐ近くにある本宮駅前には「あざみの歌」「イヨマンテの夜」「栄冠は君に輝く」のヒット曲が流れる胸像が展示されている。胸像の土台に歌手生活35年を回顧する伊藤自筆の文章が刻まれている。「来る日も来る日も ただ歌うことだけに 残された私の生涯であるから そしていつまでも ほど良く貧しく ほど良くおろかに 終焉(しゅうえん)の其(そ)の日まで 私は歌い貫きたい」。伊藤の人柄が深く胸に伝わった。