【エールのB面】語り・津田健次郎さん 『遊び』込め...芝居的な語り

 

 ドラマのナレーションは、物語を補足し、進行する役割がある。特に放送時間の短い朝ドラでは登場人物の一人といっていいほどの大きな印象を与える。朝ドラ「エール」の語りを担当している津田健次郎さんは落ち着いた声で視聴者を楽しませている。魅力的な登場人物を"語り"で一層輝かせている津田さんに「エール」への思いなどを聞いた。

 父に思い入れ

 語りの反響はどうか。
 「周りの人たちから『見てるよ』と言われ、SNS上でのリアクションも大きく、反響をいただけてうれしいです(笑)。毎週、裕一(窪田正孝さん)と音(二階堂ふみさん)の心情にどう寄り添おうかと考えたり、ナレーションとも違った表現の面白さを楽しんでいます。レギュラーでこんなに長い話数の語りをするのが初めてなので、刺激的な日々を送らせていただいています」

 語りに気持ちを込めたシーンは。
 「物語は作曲家として売れっ子になる半面、戦時歌謡の第一人者となって葛藤する裕一が描かれた。これまでの流れの中でもかなりしんどい部分だと思うので『裕一頑張れ!』と応援しながら語りを収録しました。子どもの頃から見守っていますので、裕一が戦争という大きな波にのみ込まれて苦しんでいるのは見ていてしんどいですね。しかも、裕一以外の周りのみんなも苦しむ展開になった。骨太で重厚なドラマをキャスト、スタッフ一丸となって作っているのだとビシビシ感じています」

 さまざまなキャストを見守ってきた「語り」から見た印象的な人物は。
 「裕一と音は僕の中で別格だとして、やっぱり裕一の父三郎(唐沢寿明さん)ですね。いいかげんでちょっとおっちょこちょいで、愛にあふれていてすごく好きです。三郎さんが亡くなった回は、大きなドラマの区切りにも見えて思い入れが強いですね。音の父安隆(光石研さん)もそうでしたが、お父さんとのシーンはぐっときますね。裕一の音楽人生のきっかけでもある藤堂先生(森山直太朗さん)が出征するシーンは苦しかった」

 緩急つけ表現

 戦時中を描いた部分は語りに変化はつけたのか。
 「戦争に関しての事実、当時の映像を使ってその時代を描いている部分は、語りに重みがないと負けてしまうので、映像に映っている雰囲気や空気感に寄り添える重厚感を大事にしました。でも、見ている方が沈んだ気持ちになりすぎてもいけないので、その都度、演出部と話し合って作りました」

 収録の際には演出とどのぐらいディスカッションをするのか。
 「台本を読んで映像を見て、感じたことを消化し、構築した僕なりの語りをまず提示させていただき、その後、演出の修正が入るという感じです。もちろん抑えるところは丁寧に抑えますが、ふざけるのとは違う『遊び』を好んでもらえているのかなと思っています。それが僕を呼んでいただいた理由なのだろうと最初に思ったので、芝居的な語りをやらせていただいています。例えば、ツッコむ部分は遊びを込めた語りになっていることが多いかもしれません。『あれ、この語り生きてるぞ』みたいに思ってもらえたらうれしいですね(笑)。緩急を持っていろいろなことをやらせていただける現場です」

 すてきな時間

 津田さんもドラマに出演した。
 「そうなんです。久志(山崎育三郎さん)と一緒のシーンなのですが、『闇市のあやしい人』として出演させていただきました。簡単に言えば、ガラの悪いドスの効いた感じの人です。実は以前、出られたら楽しいなぁと冗談交じりで言ってはいたのですが、まさか本当に出させていただけるとは! びっくりしました。裕一と同様に久志も子どもの頃から見守ってきた登場人物の一人なので、ほんの少しの出番でしたが、すてきな時間でした」

 スタジオに窪田さんもいたとか。
 「窪田さんには会えていなかったので『ずっと声で見守っていました』とお伝えしました(笑)。それと、久志も裕一もみんな落ち込んでいるシーンが続いて切ないですという話も。窪田さんとは、自粛中に見てくださった僕が声優で出ているアニメの話をしたり、山崎さんとはラジオの話をしたり、お二人とも温かくて楽しかったです」

 今後も、朝ドラに限らず津田さんの顔出しの芝居は見られるのか。
 「僕は元々舞台出身で、声優の仕事もしていますが、どちらの芝居もアプローチが違うので楽しいです。もちろん、お声が掛かればどちらでも!(笑)その中でも、朝ドラはとてもエキサイティングな現場でした」

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 つだ・けんじろう 1971年、大阪府出身。95年にテレビアニメ「H2」で声優デビュー。アニメや洋画の吹き替え、ナレーション、ラジオパーソナリティーとして活動。近年は声優・俳優以外に映像監督や舞台演出も手掛ける。49歳。

 【もっと知りたい】『黄金コンビ』戦後明るく

 戦後に舞台を移した「エール」には、裕一が作曲の道に戻るきっかけをつくった池田二郎(北村有起哉さん)が登場している。池田のモデルは、古関裕而の1歳年上の劇作家菊田一夫(1908~73年)。戦後、古関とコンビを組み、ラジオドラマや映画、演劇、歌謡曲を作り日本を明るくしようと力を注いだ。

 菊田は横浜市に生まれ、養子に出されて転々とするなど不遇な幼少期を過ごす。大阪などで奉公しながら夜間学校で学び、上京後に印刷工として働いた。浅草国際劇場文芸部に入り、コメディアン古川ロッパらがつくった劇団の座付作家となって才能を発揮し、多くのヒット作を生み出している。

 菊田と古関は戦前からラジオドラマの仕事を通じ仲を深めてきた。古関の終戦後の復帰作は1945年10月に放送された菊田作のラジオドラマ「山から来た男」。現在の福島市飯坂町に疎開中だった古関が音楽を担当、放送のたびに上京した。

 47年7月から菊田作のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が放送された。これはCIE(GHQの一部局の民間情報教育局)の指令で、戦災孤児らを救済するキャンペーンの一環として企画された。菊田作詞、古関作曲の主題歌「とんがり帽子」は人気を呼んだ。古関は自伝で「なんという愛らしく、優しく詩情に満ちた美しい詩であろう。幼い日に不遇であり、寂しさを味わった菊田さんならではの詩である」と歌詞を絶賛している。

 放送で古関はハモンドオルガンを担当。菊田のシナリオが遅れ、即興で冷や汗をかきながら生演奏をしたこともあった。オルガンは古関裕而記念館(福島市)に寄贈、展示されている。菊田と古関の黄金コンビは他にもラジオドラマ「君の名は」や、歌謡曲「イヨマンテの夜」を発表した。