【エールのB面】福島県舞台...「高原列車は行く」「さくらんぼ大将」

 
猪苗代町の「緑の村」に展示されている沼尻軽便鉄道のディーゼル機関車と客車。ハーモニカで「高原列車は行く」を演奏する鈴木さん

 いよいよ終盤に突入した朝ドラ「エール」第22週(9~13日)は福島を舞台に主人公の裕一(窪田正孝さん)を取り巻く人々のさまざまな人間模様が描かれた。劇中、古関メロディーの名曲「高原列車は行く」や「さくらんぼ大将」も登場した。本県が舞台となって作られた二つの名曲を紹介する。

 幼少期の記憶

 「♪汽車の窓からハンケチ振れば 牧場の乙女が花束なげる―」。軽快な歌い出しで始まる古関メロディーといえば1954(昭和29)年に発表された歌謡曲「高原列車は行く」だ。小野町出身の作詞家丘灯至夫が作詞し、歌手岡本敦郎の伸びのある美声で大ヒットした。

 丘がモデルとした高原列車とは、大正から昭和40年代にかけて猪苗代町で運行していた「沼尻軽便鉄道」である。丘は幼少期に体がひ弱だったため、湯治として沼尻軽便鉄道に乗って横向温泉の「滝川屋」に出掛けており、この記憶を元に作詞したという。

 こんなエピソードも残っている。古関は牧歌的な歌詞から、欧州の高原列車を思わせる曲想で作曲した。丘はあまりに明るく軽快なメロディーに「腰を抜かすほどびっくりした」というが、聴くうちに「この曲以外にない」と確信したという。

 同鉄道は68年に廃止された。現在、猪苗代町の観光地「緑の村」にディーゼル機関車と客車が保存されている。また、町内の磐越西線川桁駅前には沼尻軽便鉄道の歴史を紹介する記念碑が立ち、「高原列車は行く」の歌詞が記されている。

 「沼尻鉱山と軽便鉄道を語り継ぐ会」の鈴木清孝さん(73)=同町=は今年、休日を中心に緑の村にある機関車と客車の前で「高原列車は行く」のハーモニカ演奏を披露し、観光客らに同鉄道の歴史をPRする活動を続けていた。

 古関や丘と親交があった鈴木さん。朝ドラ「エール」で盛り上がる今こそ2人に恩返しをして、猪苗代ゆかりの楽曲で盛り上げたいと考えたという。「猪苗代ゆかりの『高原列車は行く』をこれからも歌い継いでいきたい」と意気込んだ。

 90歳超え作詞

 作詞家丘灯至夫(1917~2009年)の本名は西山安吉といい、現在の小野町中心部にある老舗「西田屋旅館」に生まれた。父の仕事の関係で幼少期に家族で郡山市へ転居した。金透小尋常科、郡山商工学校(現在の郡山商高)を経て二本松市などで働いていた。

 18歳から詩人西條八十に師事して詩作の道に入った。レコードデビューは1937年の「焦れったいわネ」で、東京で親交を深めた古関裕而が作曲した。その後、現在のNHK郡山放送局や東京日日新聞社(現在の毎日新聞社)福島支局で記者として勤務。福島市では古関の実家に下宿していた。戦時中は一時、海軍に配属されている。

 戦後はコロムビア専属作詞家と毎日新聞の週刊誌「毎日グラフ」記者として活動。年数十曲のペースで作品を発表し「高校三年生」で日本レコード大賞作詞賞を受賞。歌謡曲のほか「みなしごハッチ」「ハクション大魔王」などアニメ主題歌も手掛け、戦後を代表する作詞家として活躍した。

 明るい人柄で90歳を超えても作詞への意欲は衰えなかった。93年、小野町ふるさと文化の館に「丘灯至夫記念館」が整備された。同町教委の籠田まき子学芸員(52)は「丘さんはいつも古里・小野を気に掛け、町民からも慕われていた。功績を後世に残していきたい」と語る。

 全国にブーム!作品通して魅力伝える

 戦後の国民の楽しみだったラジオドラマ。古関裕而と劇作家菊田一夫のコンビで、全国にブームを起こしたのが福島市茂庭が舞台の番組「さくらんぼ大将」だ。主人公・六郎太少年の明るく生きる姿に誰もが感動し、明日への希望と活力を見いだしたといわれる。1951(昭和26)年1月から52年3月までの月~金曜の夕方の15分間に放送された。

 舞台が茂庭に選ばれるきっかけは50年の晩秋、菊田が古関に片田舎に住む少年の話を作りたい、と相談したことだった。古関が思い浮かべたのは、戦時中に疎開した飯坂温泉を流れる摺上川の上流にあるサクランボの産地だった茂庭だ。2人は構想を練るため、同年12月に茂庭を視察した。

 当時の福島民友新聞が2人の視察を伝える。菊田は「貧しい子どもが、トンマで正直な独身の町医者と友達になって助け合いながら社会を見聞する。不幸な境遇でも明るくユーモアある純情物語」と構想。古関は「現地をよく見てサクランボの香りのするような良い曲を作る」と抱負を述べたとの記事を掲載した。

 山あいの茂庭はイメージと合った。菊田は脚本をまとめ上げ、古関は挿入歌「さくらんぼ道中」などを作曲した。放送開始から半年たった51年6月、飯坂温泉や茂庭から招待を受け、古関や菊田らスタッフ、六郎太少年役のキャストらが現地を訪問。どこに行っても人だかりができる熱烈な歓迎を受けた。一行は地元住民の前でドラマの一節を再現するなどして盛り上げている。

 古関は「さくらんぼ大将」を通して故郷・福島の姿を全国の人に知ってもらいたいと考え、菊田に茂庭を提案したようだ。自伝では「あの自然の中の素朴な姿はいつまでも残しておきたいと、私は願っている」と締めくくった。物語の舞台の一部は現在「摺上川ダム」となった。同ダムの脇にはひっそりと「六郎太少年像」がたたずんでいる。