【エールのB面】制作統括・土屋勝裕さん 「思いはつながっていく」

 
土屋勝裕さん

 作曲家古関裕而と妻金子(きんこ)をモデルにしたNHK朝ドラ「エール」がついに約8カ月の放送を終えた。早くも"エールロス"で寂しさを感じている人も多いかもしれない。放送開始とともにコロナ禍で撮影が2カ月半中断、再放送で対応するなど異例の事態に見舞われたが、劇中の登場人物は、音楽と共に歩み困難を乗り越え、全国にエールを届けた。制作統括の土屋勝裕さん(50)に放送後だからこそ話せる舞台裏などを聞いた。

 放送期間が延び、よりドラマを楽しめた側面もあった。反響は。
 「とにかく反響は大きいですね。全国から『うちの社歌は古関さん』とか『校歌が古関さん』との連絡があり、古関さん直筆の楽譜が送られてくることもありました。『裕一さんにメロディーをつけてもらいたい』と自作の詩まで寄せられました。古関さんの曲が広く親しまれていることを実感しました。特に『栄冠は君に輝く』の回は盛り上がりを強く感じましたね」

 戦争向き合う

 戦争編の狙いは。
 「戦争を乗り越える構想は当初からありました。どう描くかは主人公に裕一を据えたときからの課題でした。戦時歌謡で戦争に協力した裕一が戦場に立ち、自らの曲で励まされた兵士たちが死んでいく事実に向き合う展開となりました。言葉だけでは戦争反対の思いは届きません。目の前で恩師らが死んでいくことを視聴者に伝えるため4週をかけることに決めました。視聴者も裕一の目線で戦争の無意味さ、怖さを感じるドラマを目指しました」

 戦争編の反響は。
 「編集後の映像を見たときは『朝に放送して大丈夫か』と不安でしたが短くして説明くさくなるのも嫌でした。『朝から悲惨な映像は見たくない』『しっかりと描いてくれた』とさまざまな意見がありました。戦争の現実を伝えたいと考えている方から肯定され、手応えを感じました。本放送再開後の東京の視聴率は19%台でしたが、戦後に久志(山崎育三郎さん)が『栄冠は君に輝く』を歌う回で20%に戻りました。困難を乗り越えた姿が感動を呼んだのでは。ちなみに福島はずっと30%台でした」

 長崎の鐘が肝

 戦後に裕一が「長崎の鐘」を作曲する場面はどんな狙いか。
 「実は戦後のこの部分が『エール』の一番の肝です。裕一が長崎に行き、永田(吉岡秀隆さん)から突き放されるが、どん底でも希望を捨てなければ次があると気付き、みんなを励ます曲を書き続ける思いに気付く展開でした。だから第1話に『長崎の鐘に励まされた』と語る警備員役の萩原聖人さんにも登場してもらいました」

 新型コロナによる肺炎で急逝した志村けんさんの役どころは。
 「『小山田先生』はすごく重要な役でした。志村さんが芝居をしたらすごい存在感で、小山田と裕一が意識し合っていく展開に期待を抱きました。本来であれば戦時中に志村さんが登場して音楽で国民を鼓舞するシーンがありました。戦後は裕一の曲が売れ、師弟関係のような立場が逆転する複雑な展開もあったかもしれません。小山田先生の心境の変化を描けたかもしれませんが、最後は手紙という形になりました」

 初回と結末に「オリンピック・マーチ」を据えた狙いは。
 「東京五輪の年の朝ドラに古関さんを選んだ大きな理由は『オリンピック・マーチ』です。初回で開会式を登場させ、そこに至る人生を描き、最後に結び付くようにしました。当初は9月が最終週だったので、ちょうど五輪の余韻に日本中が浸っているときにきれいに終わると思っていましたが、まさかの撮影中断や放送休止でした。このほか高校野球に合わせ『栄冠は君に輝く』にするなど社会情勢に合わせる予定でした」

 挑戦受け入れ

 これまでの朝ドラにはない演出や表現方法がめじろ押しだった。
 「劇中のセリフに『やらずに後悔するより、やって後悔したほうがいい』があり、現場のモットーになっていました。新しい提案にスタッフや出演者が乗っかり、挑戦を受け入れる雰囲気で朝ドラらしさを意識しなくなりました。これはチーフ演出の吉田照幸が音楽番組やコント番組、映画、ドラマも作るマルチな才能があることが大きいですね」

 クライマックスで窪田正孝さんが役を離れ、視聴者に向けてメッセージを送る異例の形だった。
 「『エール』という題名は古関メロディーに応援歌が多く、五輪の年ということもあって『応援』にちなみました。それがコロナ禍になり、朝ドラを通して笑いや頑張ろうと感じてもらいたいと変わっていきました。ですが逆に寄せられる応援に励まされてきました。劇中、裕一の『お互い励まし合ってエールを送り合って頑張って乗り越えていこう』というセリフがありますが、これは頑張ることはつながるという思いが込められています。私たちの思いが届いていたら頑張ったかいがありますね」 

 【もっと知りたい】『一世一代の作』を自負

 55歳の古関裕而が手掛けた1964(昭和39)年の東京五輪の行進曲「オリンピック・マーチ」。風格のある旋律は選手を鼓舞し、国民に深い感動を与えた。同時にアジア初の五輪というひのき舞台で、作曲家の名声を不動のものにした瞬間でもあった。古関自身も「一世一代の作」としたほど会心の出来栄えだった。

 64年10月10日、晴れ渡る東京・神宮外苑の国立競技場で東京五輪の開会式が行われた。各国選手団が入場する中、オリンピック・マーチが演奏された。アナウンサーは「心も浮き立つような古関裕而作曲のオリンピック・マーチが鳴り響きます」と実況で伝えた。古関はというと、招待席で愛用の8ミリカメラを構えながら選手入場を撮影している。

 作曲依頼を受けたときの古関の様子について、長女の雅子さんが「古関裕而物語」(斎藤秀隆著)で語っている。「父が大変興奮して戻って参りました。今度オリンピックの行進曲を書くことになったと母と私に話しました。私は父の喜びが尋常ではないと感じました」

 「日本的な曲」という課題があり、考えている時間は長かったが、曲想は次々湧いたという。古関は「日本的な味を出そうと苦心した。終わりの部分で日本が五輪をやると象徴するために『君が代』の一節を取り入れた」と振り返っている。

 古関が東京五輪で関わった曲では「オリンピック賛歌」もある。この曲は近代五輪の第1回アテネ大会で演奏された後に忘れ去られていたが、ピアノ用の楽譜が発見されたことで、古関がオーケストラ用に編曲し、開会式で演奏されている。東京五輪から8年後。古関は72年札幌冬季五輪でも大会賛歌などを書き上げた。