【エールのB面】古関夫妻の長男・正裕さん 音楽継承...父からのエール

 
こせき・まさひろ 1946(昭和21)年、東京都生まれ。幼少からピアノを習う。成城学園高在学中にバンド活動に熱中した。早大理工学部卒。在学中に初期のグループサウンズ「ヴィレッジ・シンガーズ」でキーボード担当。日本経済新聞社に入社し、早期退職後に音楽活動を再開、古関メロディーを中心としたユニット「喜多三」を結成。2009年に古関裕而生誕100年記念CD全集の企画・監修で、日本レコード大賞企画賞を受賞した

 全国の視聴者に勇気を与え続けた朝ドラ「エール」。平均視聴率は関東地区が20.1%と大台を超え、本県は32.1%と驚きの高視聴率だった。11月下旬に感動のフィナーレを迎えた今、物語のモデルとなった古関裕而と妻金子(きんこ)の長男・正裕さん(74)に「エール」の感想や古関メロディーへの思いなどについて聞いた。

 感動的なクライマックスだったが、本編最終回の感想は。
 「音(二階堂ふみさん)の弱々しい足取りが砂浜を駆ける軽やかな様子に変わっていく演出は歴史に残る素晴らしいエンディングでした。福島復興と東京五輪という視点で制作された『エール』ですが、コロナ禍とあいまって、『励まし』の役割を持って全国に響いて記憶に残る朝ドラになりました」

 希望伝わった

 記憶に残るシーンは。
 「歌の誕生にまつわる事実を基に脚色し、より大きな感動を与えていました。例えば『栄冠は君に輝く』での久志(山崎育三郎さん)によるアカペラの歌唱シーンは見事で、歌に深い意味を持たせました。『長崎の鐘』も裕一(窪田正孝さん)が曲想をつかむ展開が感動的でしたし、最終回に全員で歌ったことで父が曲に込めた『希望』を表現できていました。戦場のリアルな描写は戦後75年を経て戦争を知らない時代となった今だからこそ意味あるものと思いました」

 両親がモデルの古山夫妻はどうみえていたか。
 「裕一の性格はまるで父と違いますが、苦悩や葛藤を分かりやすくするには裕一のような性格が効果的だったのでしょう。母(金子)と音は雰囲気が似ていますが、実際の母はもっと情熱的で激しい性格でした。音が裕一を励まし支える姿が共感を呼んだのでしょう」

 劇中の古山夫妻は一人娘だった。
 「実際は3人きょうだい(正裕さんと姉2人)です。多くの方から『劇中には登場しないの』と聞かれましたが、私としては登場しなくてほっとしています。劇中の話を事実として受け取る人がいることが心配でした。実際、姉がロカビリー歌手と結婚したと信じた方がいらっしゃるようですが、2人の姉は医者や会社員とお見合いで結婚しています」

 音楽の力実感

 コロナ禍にあって希望と感動をもたらした作品だったが。
 「誰もが想像しないコロナ禍で撮影中断や志村けんさんの逝去など困難が降り掛かりました。出演陣や制作陣はこれらを乗り越えて、毎朝お茶の間に音楽を届け、エールを送るドラマを作り上げたことに心から感謝しています。素晴らしいドラマが実現したのは『古関夫妻の物語を朝ドラに』と熱心に活動した福島市と愛知県豊橋市の皆さんのおかげです」

 古関メロディーがより身近になった。
 「大勢の皆さんが父の歌を知っていて、喜んで歌ったり、若いときのことを思い出して涙ぐんだりしている。やっぱり歌の力ってすごい。父は子どもの頃から音楽に熱中し、生涯自分の好きなことをして過ごした。幸せな人生を過ごしたんじゃないでしょうか。『エール』をきっかけに、若い世代の方々にも古関メロディーに興味を持っていただいた。これからも歌い継がれていくことを願っています」

 時代を超えて

 正裕さんは現在、音楽ユニット「喜多三」を結成し古関メロディーを中心にしたライブ活動を展開している。結成の経緯は。
 「学生の頃にバンド活動をしていましたが、すでに父の音楽は懐メロとなっていて、若者からみれば昔の歌という印象でした。父の音楽を演奏するとは夢にも思っていませんでした。会社を退職後におやじバンドをやっていましたが、父の音楽はその特徴からバンドで演奏する曲ではありませんでした。でも多くの方々が父の音楽を大切に歌い継いでいるのを知り、余生は父の音楽をやってみるのがいいかなと思っていました。バンド仲間に背中を押され、古関家が営んでいた呉服店の屋号『喜多三』という名前を付けて2013年から活動を始めました」

 古関メロディーを継承してどう感じているか。
 「私たちの活動を喜んで聴きに来てくれる人たちがいる。そういう意味で父の音楽を継いだ活動について、両親はきっと喜んでいるのではないかと思います。父の歌はクラシックに近く、流行に左右されない要素があります。そのため、いつまでも皆さんに愛される歌になったのだと思いますね」

 古関のふるさと福島との今後のつながりは。
 「喜多三のライブ活動を通して、これからも福島に深く関わっていければ良いなと思っています。音楽の継承が『父からのエール』のように思えてなりません。ただ、あと数年したら父が亡くなった年になるので、私ももう年です。あと何年できるか分からないですが、元気なうちは頑張って続けていきたいと思ってます(笑)」

 【エールのB面】闘病中...ショパン聴き涙

 古関裕而の妻金子は終戦後の1946(昭和21)年に出産した長男(正裕さん)の子育てを機に声楽活動をやめている。最後の活動は49~50年にNHKラジオで放送された創作オペラだった。その後は詩の創作をしたり、油絵を描いたり、株式投資に熱中したりと趣味にいそしんだ。

 正裕さん(74)は「母は喜怒哀楽が激しくて、情熱的で、いわゆる芸術家タイプ。人の目を気にせず自分の考えで積極的に動く」とその人柄を評し、「家では私にピアノ伴奏させて、よく歌っていた」と振り返る。声楽活動をやめたことについては「子育てのために歌をやめたとよく言っており、私はなんともいえない複雑な気持ちで困った」と苦笑い。金子が朝ドラ好きだったため「自分がモデルになることを表向きは謙遜し、内心はとても喜んで自慢したと思う」と思いを巡らせた。

 裕而が71歳を迎える1980(昭和55)年は、自身の作曲生活50周年の記念すべき年であると同時に、最愛の妻金子との悲しい別れの年でもあった。金子は76年ごろに乳がんとなり、闘病の末、80年7月に68歳で死去した。金子の死は裕而に大きなショックを与えた。

 正裕さんは金子の闘病中について「(金子の)入院前に私がショパンを(ピアノで)弾いていたところ、母(金子)は涙を流して聴いていました」(「古関裕而物語」斎藤秀隆さん著より)と振り返っている。

 葬儀は東京・世田谷区の寺で行われた。葬儀後のあいさつで裕而は消え入りそうな声でただ一言、「大変お世話になりました」と述べ、出棺ではしゃくりあげながら後を追ったという。

 金子は生前、自身の心情を歌で残している。「激痛をなだめんとして暁の浴室に佇ち、われ生きんとす」