【エールのB面】萩本欽一さん 古関裕而との共演...思い出や秘話語る

 
はぎもと・きんいち 1941年、東京都出身。駒込高卒業後、浅草東洋劇場の軽演劇の一座に加わる。66年に坂上二郎氏と「コント55号」を結成。「欽ちゃん」の愛称で広く知られ、バラエティー番組や司会で一時代を築いた。「なんでそーなるの!」「どっちらけ」など語り継がれるギャグも多い

 3月から日曜日に連載してきた「エールのB面」も今回で最終回。フィナーレを飾るのはコメディアンの萩本欽一さん(79)。芸能人や有名人とその家族が歌を競い合う「オールスター家族対抗歌合戦」(フジテレビ系)で司会を務め、審査員長だった古関裕而と約12年にわたって共演、お茶の間の人気を集めた。今も「古関先生」と慕い、「エール」を特別な思いで視聴した"欽ちゃん"が番組での共演の思い出や知られざる秘話を語った。

 心がうきうき

 古関メロディーを聴いたのは。
 「古関先生の曲を聴いたのは小学生の頃。ラジオから『とんがり帽子』が流れてきて心に響いた。よくラジオの前で歌いながら行進した。『緑の丘の~♪』と聴こえてくると心がうきうきして歌いたくなってくるんですよ。ラジオでは必ず『古関裕而作曲』と言っていたから、小学生から名前がインプットされちゃった。その後も高校野球や早慶戦の中継でも先生の名前が出て、僕の中でどんどん偉大な人物になった」

 番組で古関と会った感想は。
 「古関先生のお顔を拝見したときは、小学生の頃の感動があふれて感激した覚えがあるんです。それを伝えて『なんだか得したような、うれしいような気持ち』と言ったら、先生はなんにも言わないで、にこっとしてうなずくだけ。普通だと会話がつながるんだけど、別格だなと感じたね」

 自宅知り驚き

 古関とはご近所同士だった。
 「放送開始から5年ごろだったかな。テレビ局の帰り、古関先生の乗るハイヤーの後ろを走っていた。帰り道が同じで『同じ方向だ』と思っていたら自分の家に着いた。驚いた。間違いなく隣の隣なんですよ。次の週に『ご自宅は隣の隣ですね』と言ったら、そのときも笑ってうなずいてましたよ。古関先生はすでに知っていましたが、そういうことを自分からは話さない。そういう人ですよね」

 審査員には歌手・作曲家近江俊郎さんらもいた。
 「審査員にツッコんだけど、古関先生にはできませんでした。審査員と楽屋が一緒だったんですが、近江先生が中心で、古関先生はしゃべらない。歌謡曲の話題になると、近江先生は『古関先生には誰もかなわない』と締めた。古関先生はそのときもにっこり笑うだけ。これは発言すると偉大さが増してしまうからだと思うの。テレビ界はないことも大きく言ったりするけど先生はむしろ偉大さを感じさせないように、あまり話さなかった。放送開始から10年たち、楽屋で近江先生が『欽ちゃん、そろそろ座りなよ』って言ってくれたけど、気を使って座れなかった。古関先生が『座りな』と言うように、お尻をずらして隣をポンポンとたたいた。感激して『先生の隣には座れません』って言ったら、古関先生はほほ笑んだ。『欽ちゃんが番組辞めたい』とうわさになったときは、近江先生が『古関先生がさみしいって』と言ってきたので『古関先生に言ってください。辞めることはないです。最後までお付き合いします』と即答です。2年後に古関先生が辞めることになって、僕も共に番組を去ったわけです」

 ご近所付き合いは。
 「自宅から出たらばったり会ったり、散歩中に会うこともよくありました。古関先生が奥さま(金子(きんこ))と歩いていたとき、『デートですか?』と聞くと、『病院です』と返ってくる。『手の組み方がデートのようですよ』と言うと、にこにこと笑ってらっしゃる。会うたびに冗談言って声を掛けた。普段も全然変わらなかった。奥さまもにっこりして、首を少し傾け、腕を組む感じでいて、寄り添う姿がすごくきれいでしたよ」

 一緒に歌った

 朝ドラ「エール」の感想は。
 「俳優さんが上手なので、実際とはだいぶ違うなと感じました。僕の古関先生像はあまり話さず、にっこり笑うだけ。それだとドラマにならないか。出演者が次々古関メロディーを歌った最終回は、ほとんどの曲を覚えているので、テレビの前で大きな声で一緒に歌いました。歌が下手なもんで、あんまり歌わないんですが、全曲お付き合いしましたよ」

 好きな古関メロディーは。
 「『長崎の鐘』のメロディーが転調するところが大好き。古関先生の思いが込められていて、心がジーンとするんですよね。『先生ありがとう』と思ってしまう。僕の中には、あんなに先生の歌があったんだと改めて思った。多くを語らないが、メロディーでは実に多くのことを語っている。でも、古関先生はこういうこと冗談でも言わないだろうね」

 古関の地元福島へ一言を。
 「震災から1年ほどたって福島などに出掛けてみたとき、各地で食事を楽しんでいた名古屋ナンバーの車の人と話した。被災地支援を前面に出さず、気軽な気持ちで続けるんだって。さりげなく応援するのってすてき。『お昼を食べに行く』ような感覚で、みんなが被災地支援できたらいいだろうな。コロナ禍が収束したら福島や東北のどこかで欽ちゃんがご飯を食べてると思います。コロナとさよならできる日を待っています」

 【エールのB面】最後は自分のために

 古関裕而は劇作家菊田一夫と組み、戦後からラジオドラマや歌謡曲でヒットを生み、舞台音楽に活躍の場を移す。しかし、1973(昭和48)年に菊田が急逝すると、仕事量は減っていく。自伝で菊田の死について「心に空洞ができた。新しい作曲をしていこうとひそかに決心したが、意欲を湧かせてくれる人は現れなかった」と回顧した。

 全国各地の校歌や社歌の作曲、NHKラジオ「日曜名作座」の音楽担当などは晩年まで続けた。「オールスター家族対抗歌合戦」などテレビ出演もあった。自伝で「萩本欽一君の司会がおもしろいので楽しく参加している」とした。

 作曲家生活50年に当たる79年、福島市の名誉市民第1号に選ばれた。推戴式で「いつも古里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通し、市のため仕事を続けていきます」(福島民友夕刊)と話した。

 一方で80年に出版した自伝で菊田の死後の作曲意欲を書き残した。「私の脳裏からは音楽が際限なく湧き上がってくる」。才能が枯れたわけではなかった。「どうして私は五線紙に書き取らないのだろう。『めんどう』だからなのか。違う。それよりはジッと耳をすましている方がいい。音楽は私が楽しむものとして意味を持ち始めている」

 古関は80歳の誕生日の1週間後の89(平成元)年8月18日に死去した。激動の昭和を生き抜いた作曲家の人生は平成の訪れと共に"終演"を迎えた。