【丹治千恵】随筆集「紅い糸」 牧水の横顔「寂しい人」

 
旧奥州街道沿いに立つ国登録有形文化財「瀬上 嶋貫本家」。商家で大地主の大國屋が1899年に着工した大規模な民家で、かつて門間醤油店など大店が軒を連ねた瀬上のにぎわいを伝えている=福島市瀬上町本町

 歌人若山牧水が1916(大正5)年に福島市を訪れた際の短歌と足取りを記した、この連載の第29回(4月19日付)について、読者からお便りをいただいた。

 「六十数年前に何回も聞かされた話を思い出しました」で始まる文面を要約すると「牧水は、瀬上の門間春雄の和歌仲間の家に何泊かされた。財のある家で、お酒もくみかわし、歌談義をされていた。(門間の)妹千恵さんも話を伺いたいと言ったら『女には必要ない』と入れてもらえなかった」。そして「仕事・女性の地位向上などで勉強させていただいた丹治千恵女史(結婚後に丹治姓)の思い出です」と結ばれていた。

 つまり「牧水は福島市を訪れた時、門間春雄やその仲間たちと交流していた」というのだ。

 この手紙を一読し胸が高鳴った。まさに知りたかった情報が飛び込んできたからだ。

門間家と交流

 門間春雄は、信夫郡瀬ノ上村(現福島市瀬上町)で、しょうゆ醸造業を商っていた商家の主人で、アララギ派の歌人である。歌人の長塚節や斎藤茂吉との交流は有名で、特に茂吉とは1916年7月、瀬上の自宅と高湯温泉(福島市)とで約1週間ともに過ごしている。この時、門間が詠んだ歌の一つが〈をさな児をなだめかへして山ゆくと蜩の啼く森にいりけり〉。

 この1916年は牧水が福島市を訪れたのと同じ年である。

 牧水は同年4月下旬、福島市内を訪れ、瀬上町から飯坂町(当時信夫郡飯坂町)まで歩き、その後、阿武隈川沿いの市街地に足を延ばしたことが歌集「朝の歌」所載の「残雪行」52首から分かる―と第29回で書いた。

 一方、裕福な商家だった門間家は、春雄の父の代から俳句をたしなみ、中央の文人や画家たちの支援者でもあった。結核のため29歳で亡くなった春雄も、当時は高湯温泉から吾妻山に登るほど健康だった。

 こうした状況証拠から、瀬上を訪れた牧水が門間家を訪れた可能性は高い。だが、牧水の紀行文などには「門間家」についての記述は見当たらない。調べが進まぬため、第29回では門間家に関する記述を全て削った。

 そんなもやもやした言い訳を胸に抱えていた時届いたのが、先の読者からのお便りだった。

 差出人は福島市の渡部八重子さん(84)。1957(昭和32)年、県農協中央会に就職した渡部さんは、当時県農協婦人部の事務局長を務めていた門間春雄の妹、丹治千恵(1899~1983年)の謦咳(けいがい)に接したと言う。

 「門間家に若山牧水が来たことは、千恵さんから直接聞きました。そして、牧水ら文人たちが訪れた時『女だから文学は分からない』と話の仲間に入れてもらえなかった千恵さんは『それが悔しくて、隠れて暗闇で本を読んでいたので目が悪くなったのよ』と言っていました」。昭和30年代、農村での女性の地位向上に燃える彼女たちの姿が目に浮かぶエピソードである。

 ただ、気になるのは口伝だけで、物的証拠がないことだ。だが、牧水と門間家との交流を示す証拠は意外と身近にあった。横浜市に住む門間春雄の孫、三尚(みつたか)さん(80)は「牧水とは、手紙で交流があったと聞いていた」と話し、その後資料を調べた上で「県立美術館に寄贈した資料の中に、牧水から春雄の父門間勘左衛門宛てのはがきがある」と教えていただいた。同美術館によると、はがきが出されたのは1909(明治42)年。牧水の福島訪問より7年前、両者には交流があったのだ。

強い印象残す

 さて最後に、調べ残していた丹治千恵の著作に当たった。随筆集「紅い糸」(1981年)は、千恵が自身の子ども時代の思い出などや、戦後巡った県内各地の農村の雑感が所載されている。その1編「大正のころ」に、あっけなく確証が見つかった。その部分を抜粋する。

 「福島に中央の芸術家が来ると、瀬上の家に案内されて来るのでした。(中略)若山牧水の来られた時が、私には一番印象に残っております。それはたしか大正五年の四月でした。牧水もまだ有名になる前でシマの着物に袴のまま、大きな玉のついた毛糸の帽子、すりへった下駄という姿でした。多分"さびしさのはてなん国ぞ今日も旅ゆく"という放浪時代だったのでしょう。/その日は丁度兄が外出中で母は牧水の何人なのかもわからず、仕方なく十八才の私が、兄の帰るまで相手になってもてなしました、酒はいくらでもあがるのですが、何か寂しい人、というのがその時の印象でした」

 簡潔明瞭かつ詳細。この一文にたどり着くのに、かなり遠回りしたが、福島市での牧水の足取りをたどるこのリポートも少しは明確になったろう。

 それにしても、かつてはこの随筆を通し、牧水と門間との交流について知る人も多かったろうに。取材の途中、今はなき門間醤油店の面影を知ろうと、瀬上町に残る明治時代の商家の建造物で国登録有形文化財「瀬上 嶋貫本家」を訪ねた際、同家の島貫倫(のり)さんに言われた言葉を思い出した。「年を取ると地元の歴史が知りたいと思うが、その時は聞ける人がいない。もっと聞いておけばよかったと思うことが、いっぱいあります。地方にとって歴史は大きな財産なのに」

アクセス













 【アクセス】福島市瀬上町へは、JR東北線東福島駅(同福島駅から約5分)下車、または阿武隈急行瀬上駅(同福島駅から約10分)下車。車の場合は、東北道福島飯坂インターチェンジから約10分。

          ◇

 【門間春雄】1890(明治23)年、信夫郡瀬ノ上村(現福島市瀬上町)で、しょうゆ醸造業、門間文助、さとの長男として生まれる。瀬上小、福島中(ともに旧制)を経て早稲田大政治科予科に入学するが、父の命により7カ月で退学し帰郷、20歳から家業に従事した。

 福島中時代から父の指導で俳句を作り、短歌は20歳頃から与謝野鉄幹、晶子の雑誌「明星」に作品を発表するなどしたが、小説「土」の作者で歌人の長塚節に自作の短編小説の批評を請うたのを機に長塚と交流が始まり、夏目漱石、伊藤左千夫、斎藤茂吉、島木赤彦ら文人たちとも交流するようになった。地元福島では文学者や愛好者と「れんぎょう社」を作り活動した。

 長塚の死去(1915年)後は茂吉に作歌の批評を受け、1916(大正5)年には茂吉と高湯温泉に滞在する。これ以降、作歌に精力的に取り組み、没するまでの約3年間、雑誌「アララギ」で作品を発表した。この頃、門間家には若山牧水、画家の小川芋銭、小川千甕ら多くの芸術家らが滞在している。

 しかし17年、結核で入院。病床で作歌を続けるが、19年2月、29歳で没した。「門間春雄歌集」には239首が所載されている。地元瀬上町の龍源寺に〈ねぶりたる吾を起さじとたらちねのひそかに炭をつぎたまふ朝〉の歌碑がある。(1931年岩波書店刊「門間春雄歌集」所載の「門間春雄年譜」によった。作成は春雄の実弟勝弥氏。年齢は満年齢)