【吉野せい】「洟をたらした神」 古里の風景、再び出会う

 
吉野夫妻が開墾した集落へと続く森の中の道=いわき市好間町北好間

 知人から以前、いわき市の作家、吉野せいの短編集「洟(はな)をたらした神」を薦められた。しかし当時は、女性の一代記的な触れ込みに古くさい印象を受け、読むことはなかった。その後、偶然に彼女の文章に触れ、先入観が崩れた。少し硬質な文章が、潔く新しく感じられたのだ。

 そして最近、別の知人からも「洟をたらした神」を薦められた。今度は映画版だった。再挑戦するつもりで映画を見、原作を読み、その舞台を訪ねた。

大半が地元ロケ

 吉野せいは、1899(明治32)年に現在のいわき市小名浜で生まれ、同市好間町で農業を営み、晩年に家族との農村での生活を描いた短編などを残した作家だ。「洟をたらした神」は、その一編の題名で、彼女が75歳の年、1974(昭和49)年に刊行された短編集のタイトルにもなった。短編集は、せいが、開拓農民で詩人でもある吉野義也(筆名・三野混沌(みのこんとん))と結婚した少し後の22(大正11)年から、同書出版直前の74(昭和49)年まで、半世紀の出来事とその折々の心情をつづった16編が、時系列順に並ぶ。

 78年に近代映画協会製作、神山征二郎監督で完成した映画は樫山文枝(せい役)、風間杜夫(義也役)の主演のドラマだ。結婚、夫婦の友人である農民詩人猪狩満直との交流、開拓地での貧しい生活と子育て、幼い次女の死、長男の出征、夫婦の老い―。エピソードをつなぎ、20世紀とともに生きた女性の一代記として構成された。

 事実に基づいた短編は、過剰な演出はなく客観的に記されながら、同時に著者や家族の心情が繊細に描かれている。一方、映画は物語が分かりやすい分、演出を感じる部分もある。

 ただ、VTRの映像を見て「これは確かに、いわきだ」と思った。野良着姿のせいが歩く山あいの小道や、義也と猪狩満直がもっこを担ぐ川沿い。数々の場面からは、いわきの「匂い」がする。

 「映像は、冒頭の磐梯山などを除き、ほとんどがいわきで撮影されたから」。映画版を薦めてくれた、いわきロケ映画祭実行委員会の緑川健代表(いわき市四倉町)は、そう説明し「自分は原作ではなく、映画から作品に引き込まれた」と話した。

 同実行委は2017(平成29)年から、同市で撮影された映画の上映会「いわきノスタルジックシアター」を劇場いわきPITで5回開催し、最初の上映作が「洟をたらした神」だった。

 「震災前の市内の風景が映っている映画が見たいと、ある人に言われたことがあった。ぴあ社長で同じ四倉出身の矢内廣さんにも『協力するから、やろう』と言われ、仲間たちと踏み切った。震災に遭った私たちが、もう一度古里を見直して、元気を取り戻そうと始めた企画だった」と緑川さん。上演前の準備では、ロケ地を探し各地を巡り、晩年のせいが家族と語らう薄磯海岸、長男が入営した兵営(会津若松市)の正門として撮影された磐城高の正門などを訪れ、資料を作った。

 文学賞、吉野せい賞を主催するいわき市とともに開いた上映会には、定員を超す申し込みがあった。緑川さんも、吉野夫妻が住んだ好間町の人から、義也らがもっこを担ぐ場面のロケ地が好間川の独古内橋付近と教えられた。「個人的には薄磯海岸の場面が好き。映像を見て訪れると、震災後も同じ風景が広がっていました」

 そんな緑川さんの幸せそうな話を聞き、記者の対抗心に火が付いた。吉野夫妻が住んだ「菊竹山」の麓を探し同市好間町に向かった。

受け継いだ地

 吉野家の菩提寺(ぼだいじ)龍雲寺の裏手にある丘陵地が、義也が入植し家族が暮らした開拓地という。しかし、付近で菊竹山の表示を探すが見当たらず、道行く人も首をかしげる。仕方なく丘を下り、飛び込んだ好間公民館で「義也の詩を刻んだ石碑がこの辺にあるのでは」と言われ、再び丘の上へ戻った。すると、畑の傍らで休む男性2人を見つけた。話し掛けると、その一人が吉野夫妻の四男誠之(せいし)さん(85)だった。

 誠之さんは映画の中で、耕運機を運転していた。そう言うと本人は少し笑い「ここではロケはしていない。(同市)豊間で撮影していた。神山監督はいい人だったな」と言い、母屋の裏山を菊竹山と言うと教えてくれた。「親が開墾した土地。粗末にできない」と静かに話す誠之さんの姿が、映画のワンシーンのように見えた。

いわき市好間町北好間の地図

























 【アクセス】吉野家が入植したいわき市好間町北好間は、常磐道いわき中央インターチェンジ(IC)から車で約10分。薄磯海岸は、同ICから車で約30分。

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 【吉野せい】1899(明治32)年、現いわき市小名浜で誕生。高等小学校卒業後、1916(大正5)年から約2年、小学校に勤務し、この頃、同市平で牧師をしていた詩人で児童文学者の山村暮鳥から文学の指導を受け、雑誌などに投稿をした。21年、菊竹山腹の小作開拓農民吉野義也と結婚。以後1町6反歩(約1.6ヘクタール)を開墾、1町歩の梨畑と自給を目標の穀物作りの生活を送った。「洟をたらした神」は、70歳を過ぎ書き始めた作品16編を収め、74年弥生書房から刊行された。77年11月没。

 【当初はドラマ想定】映画「洟をたらした神」(16ミリカラー、80分)は当初、科学技術庁提供で、東京12チャンネル(現テレビ東京)のドラマとして製作された。しかし、長男が原発職員として登場するという原作にない場面について、吉野家から手直しの希望が出され、修正で合意したが、テレビ局が製作中止を決定。作品は、製作プロダクションの近代映画協会が完成させ、映画として各地で上映会が開かれた。