【手塚治虫】「スリル博士」 現実シンクロ、神様の旅

 
手塚治虫が東山温泉を訪れた当時をイメージし調度品をしつらえた「いろりの宿 芦名」の「あられ」の間。文机には手塚作品や「私たちの手塚治虫と会津」が並ぶ。ちなみに手塚が泊まったのは原瀧別館すみれ館といわれる=東山温泉

 「漫画の神様、手塚治虫さんは、会津若松市に来たことがあって、その旅を基に描かれたのが『スリル博士』の一編。実はその作品に、今はない地下通路が出てくるんです」。福島地域通訳案内士の昆愛(こんあい)さん(郡山市)が「幻の地下通路」情報を教えてくれた。手塚治虫と地下道―ロマンではないか。早速、会津の手塚伝説を求め出掛けた。

漫画描く実験

 「スリル博士」は、スリル博士(姿形は人気キャラクター・ヒゲオヤジ)と息子ケン太が、悪の組織を相手に活躍する少年漫画。1959(昭和34)年3月創刊の週刊少年サンデー(小学館)で、創刊号から約半年連載された。その第4話「博士のノイローゼ」(15ページ)の舞台が会津若松だという。

 電子書籍になった作品(手塚治虫文庫全集版)を読むと確かに磐梯山、鶴ケ城、飯盛山、東山温泉―見覚えのある風景が、次々と出てくる。かつて東山温泉と背炙(せあぶり)山を結んでいた市営ケーブルカーも登場する。

 これはうれしい。だが正直戸惑う。手塚作品の舞台の多くは外国や宇宙、未来など「ここではないどこか」。それが、なぜ会津なのだ。すると、問い合わせをした手塚プロダクションから、手塚の長女で取締役の手塚るみ子さんのメモが届いた。

 「手塚治虫は生涯に3度、会津若松を訪れている。初めて訪れたのは1959年4月。当時とても売れっ子だったにもかかわらずスランプに陥っていた。週刊・月刊合わせて8本の連載、読み切りも多数抱えていた。当時のアシスタントに会津若松の出身者(笹川ひろし氏、平田昭吾氏という会津漫画研究会のメンバー)がいたので、彼らの話に興味を持ち、気分転換に6泊7日の会津旅行へ出掛けた。現地では、同じ漫画研究会の白井義夫さんが案内してくれた」

 つまり、週刊連載開始から間もなく、リフレッシュに出掛けたのが、弟子たちの故郷会津だった。そういえば「博士のノイローゼ」でも、敵の影におびえる博士が気分転換で会津若松を訪れた。この作品は現実を投影しているのだろうか。

 「まさにドキュメンタリータッチ。手塚先生はケーブルカーに乗って(主人公が止まったケーブルカーから脱出する)ストーリーを考えたのでは」と会津美里町の白井祥隆さん(70)は話す。祥隆さんは、手塚を歓待した会津漫画研究会の関係者らに取材し、手塚の足取りやゆかりをまとめた証言集「私たちの手塚治虫と会津」(2012年、福島まんが集団"青い鳥"編)の編著者の一人。

 祥隆さんによると、作品内の名所は全て手塚が訪れた場所。登場人物も、案内役の博士の弟が会津漫画研究会の会長だった白井義夫氏、「われわれとて会津男児」と気勢を上げる会津弁の3人は神明通り商店街の青年部員―と、地元の人々がモデルだ。祥隆さんは「義夫さんと3人は、先生を連れ飲み屋をはしごし、最後にすし屋に入ったのが午前2時ごろ」と笑う。

 ただ、当時案内をした同研究会の会員で、版画家の板橋英三さん(81)=会津若松市=は「先生は、みんなが帰ると旅館で原稿を描いていた」と言う。その原稿が「博士のノイローゼ」。もはや息抜きではなく、旅行漫画を描く実験のようだ。

目がカメラに

 さて、幻の地下通路だが、一見して作品には見当たらない。しかし、祥隆さんの解説でようやく見つけた。東山温泉の大浴場の場面の下、かまぼこ形のトンネルがその通路だ。「浴場の特徴的な柱は、原瀧本館にあった千人風呂のもの。トンネルは、本館と多分、別館をつなぐ地下通路。私も子どもの頃通ったが、今は埋められたようです」。なんと細かい描写。この旅行で、手塚はスケッチなどしていなかったはずと祥隆さん。「先生の目は全くカメラです」

 地下通路の本館とは反対側辺りに現在立つ旅館「いろりの宿 芦名」には、手塚が投宿した一室をイメージした客室がある。女将(おかみ)の和田美千代さんは「主人が古民家の部材を集め、昭和の趣を大切にしようと造った宿。先生が泊まったわけではないが、当時の雰囲気を味わっていただければ」と言う。

 これで伝説の旅も終わり。帰りに東山温泉近くの田楽料理「お秀茶屋」に寄ると、ヒゲオヤジが描かれた手塚のサインがあった。「先生が来たのは祖母の代。自然にすらすら描き上げたと言ってました」と17代目店主の佐藤竜太郎さん、千登勢さん夫妻。そんな神様のサインは今も、市内各所で伝説とともに大切にされているらしい。

東山温泉の地図













 【東山温泉へのアクセス】JR磐越西線・会津若松駅から路線バスで約25分。磐越道・会津若松インターチェンジから車で約20分。

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 【手塚治虫(てづか・おさむ)】本名・手塚治。1928年大阪府生まれ、兵庫県宝塚市出身。漫画家、アニメーション監督。医学博士。46年、17歳でデビュー。戦後の新しい漫画表現を切り開き、現代日本の漫画、アニメーションの根幹を築いた一人。「漫画の神様」といわれる。生涯に制作した漫画作品は43年間で700タイトル、15万枚に上る。63年には日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を制作した。代表作は「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「火の鳥」「ブラック・ジャック」「アドルフに告ぐ」など多数。89年没。

 【72年、75年も来訪】手塚治虫は、1972年と75年にも会津を訪れた。72年は5月、漫画集団の旅行で、漫画家24人と会津白虎まつりに参加するなどした。3度目となる75年は8月15~17日、家族旅行で五色沼、猪苗代湖、野口英世記念館、飯盛山などを巡った。この時、総勢約10人の家族と親戚は一足早く14日に大型バスで出発。締め切りを抱えた手塚は、翌15日に合流し、旅館で作品を仕上げた後、家族旅行を満喫したという。当時マネジャーだった手塚プロダクションの松谷孝征社長(76)は「とにかく仕事が忙しい時期で、深夜、懇意の個人タクシーに頼んで、手塚先生を東京の仕事場から会津まで乗せてもらった」と振り返る。また、長女るみ子さんは著書「オサムシに伝えて」で、「なぜ野口英世のお母さん(名前がシカ)は鹿なの」と父に尋ね、家族で爆笑した思い出をつづっている。