【真船豊】演劇「鼬」、音楽劇「鼬」 激しさの内側に「深い愛」が

 
真船豊の生家に近い猪苗代湖畔の青松浜。浜辺ではキャンプを楽しむ若者たちの姿が見られた

 石川啄木が「ふるさとの訛(なまり)なつかし 停車場の人ごみの中に そを聴きにゆく」と詠んだように、方言には温かい響きがあるように思っていた。しかし、真船豊の戯曲「鼬(いたち)」を読むと方言に対する印象が一変する。登場人物が使う方言がとにかく激しく、荒いのだ。相手を強くののしる言葉のオンパレードに圧倒される。

 会話全て方言

 物語の舞台は「東北地方、鉄道から五六里離れた、ある旧街道に沿うた村」と原作にはある。これは真船の故郷である福良村(現郡山市湖南町福良)とみて間違いないだろう。真船の生家は、最寄り駅の上戸駅(猪苗代町)から南に約20キロほどの旧会津街道沿いにある。「鼬」は、息子の農民運動への参加を快く思わなかった父に連れ戻された真船が、実家で過ごす日々の中で構想したといわれる。

 没落した生家を守る嫁のおかじと、その屋敷を狙う、イタチのようにずるがしこい義理の妹おとりとの争いを軸に、物欲にうごめく人間の醜さを執拗(しつよう)に描いた。発表された1934(昭和9)年、久保田万太郎の演出で上演されると評判を呼んだ。登場人物の会話は全て方言だ。作中で、おかじがおとりを罵倒する際のセリフの一部を紹介する。

 「ははア、うぬの黒い腹、そんでのみこめた。畜生! そんでうぬは、三ぶ(万三郎)を手なづけてゐやがつただな。三ぶのバカをだまくらかして、生血吸う了簡だ。(中略)うぬツ、ただおかねいだぞ。おらいつまでだるま屋の嫁でねえぞ。うぬらに甘く見られて堪(たま)つか! この泥棒鼬ツ!」

 全編を通してこの調子である。

 舞台のモデルは真船の生家の近くにあった旅籠(はたご)で、登場人物も近所に住む実在の人たちに似せたという。使っている方言も会津地方寄りの郡山弁のように思われる。

 しかし、湖南地区の民俗史に詳しい橋本勝雄さん(79)によると、「当時の福良村の方言はもっときつかったはず。真船は戯曲を読む人が理解できるよう、地元の方言をある程度修正して『鼬』に落とし込んだのではないか」と推測する。

 それを裏付けるようなエピソードがある。真船が「鼬」を観劇してもらおうと、福良村の両親を東京に招いた。すると、両親は「どこの言葉だろうか」と頭をひねったというのだ。

 また、橋本さんは「鼬」が評判となったことについて、「地元では、あまり面白く思わない人が多かったようだ」と話す。作品に登場するのは欲にまみれた人間ばかり。そのモデルになったのが自分たち地元の住民だと知れば、手放しで称賛できないのはもっともだろう。

 「鼬」はこれまで数多くの劇団によって上演されてきたが、現在では公演の機会が少なくなっている。そうした中、ミュージカル仕立ての「鼬」が2月、須賀川市で上演された。文化庁による演劇人交流育成事業の一環として、初演から約90年を経て音楽劇として生まれ変わった。オーディションで選ばれた県民も役者として出演した。

 舞台は、ど派手にアレンジした民謡「会津磐梯山」に合わせた出演者全員でのダンスで幕を開ける。ストーリーは原作を基にしているが、方言によるセリフは実にリズミカルだ。

 台本を担当した劇作家の佐藤茂紀さん(57)=郡山北工高教諭=は「鼬の登場人物のセリフにはリズムがある。まるで精緻な建築物のように完成された言葉が並んでいる」と真船の言語センスを評する。おかじの娘おしま役で出演した瑠華さん(25)=郡山市=も「これこそが地元に根付いた芸術だと感じた」と言う。

 古里への思い

 音楽劇は、新型コロナウイルスの影響で予定通りに稽古ができなかったり、キャストや公演会場が変わったりするなど苦難を乗り越えての上演となった。だが、佐藤さんは東日本大震災と原発事故から10年の節目に上演を実現できたことに大きな意味を感じている。「悪者ばかりが登場する物語だと思われがちだが、おかじやおとりは家や古里を守りたいとの思いが強い。それは真船の気持ちに通じるはずだ」と捉え、「鼬」を古里再生の物語だと解釈する。

 真船の生家に近い猪苗代湖・青松浜には、おとりの「生れ故郷ほどせいせいすっとこはねえなァ」とのセリフが刻まれた文学碑が立つ。この言葉は、真船の本音でもあっただろう。

 取材の過程で、こんな話を聞いた。戦後、復員した湖南地区の青年団員らが地元で「鼬」を上演したという。真偽を確かめることはできなかったが、死線をくぐって故郷に帰ってきた若者たちが「せいせいとした」表情で劇を楽しむ風景を想像し、方言の持つ温かさを改めて感じることができた。(一部敬称略)

【真船豊・演劇、音楽劇「鼬」】郡山市湖南町

 【郡山市湖南町までのアクセス】最寄り駅はJR磐越西線・上戸駅。磐越道・磐梯熱海インターチェンジからは車で約40分。湖南町の猪苗代湖岸は青松浜をはじめ「湖南七浜」として知られ、多くの観光客が訪れる。

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 【あらすじ】舞台は昭和初期、東北地方のある寒村。旧家「だるま屋」は、嫁のおかじが一人で家を守っていた。息子で当主の万三郎は南洋に渡ったまま音沙汰がなく、だるま屋は借金のかたとして売られることになった。

 おかじのもとには金貸しや女地主、村役場の馬医者など欲にまみれた者たちが押し掛け、畳や障子までもぎ取っていく。出戻ってきた娘おしまも飲んだくれでなすすべもない。

 そんな折、おかじの義理の妹おとりが豪勢ないでたちで現れる。おとりは、3年ぶりに戻った万三郎に金を貸して生家を取り戻すが、実は生家の権利をわが物にすることが狙いだった。

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 【真船豊まふね・ゆたか)】1902(明治35)年、安積郡福良村(現郡山市湖南町福良)生まれ。小学校を卒業後、北海道に養子に出されるが、数カ月で故郷に戻る。その後上京して早稲田実業に入学、芝居に出合う。早大英文科に進むが、退学して農民運動に入った。34年、貧困の中で苦闘しながら戯曲「鼬」を発表し、一躍文壇で脚光を浴びる。
 「裸の町」「遁走譜(とんそうふ)」など鋭い人間観察に基づいた戯曲のほか、ラジオドラマの台本も手掛けるなど、75歳で没するまで創作意欲は衰えることはなかったという