【エールのB面】裕一の父役・唐沢寿明さん 三郎こそ『真の幸せ者』

 

 朝ドラ「エール」で、主人公・古山裕一(窪田正孝さん)の父・三郎役を熱演した唐沢寿明さん。頼りなくも憎めず、お茶の間を笑わせた。窪田さんとの息の合った掛け合い、古山家への思いなどを語った。

 福島弁に苦戦

 「エール」に出演が決まったときの思いは。
 「窪田君とは(別の)ドラマでの共演をきっかけに数年前から交流があります。父親役に限らず、どんな役でもオファーがあれば出演するつもりでした。ちょうど父子のような年の差でもありますから、いわば父親のような目線で窪田君を見ていますしね。彼にはもっともっと活躍してもらいたい。そのために力を貸していきたいと思っているんです」

 福島弁でのセリフは。
 「大変ですね~。毎回、かなり練習して撮影に臨んだのですが、お芝居を合わせるとうまくできなかったです。ちょっと発音が違うだけで全然違う言葉に聞こえるようで...。(あさイチ出演で)西田敏行さん(郡山市出身)にレクチャーをお願いしたんです。吹き込んでもらった音源を何度も何度も聞いて練習したのですが、それでも難しかったですね。もう僕は、福島弁の才能がないとしか言いようがないです(笑)」

 息子の夢応援

 三郎にとって裕一はどんな息子か。
 「小さい頃から運動が苦手で、いじめられがちな子でしたから、三郎は裕一のことをずっと心配していたんじゃないでしょうか。弟の浩二(佐久本宝さん)の方がしっかりしているものだから、どうしても長男である裕一に目が行きがちだったのかなと。ですから『裕一君には音楽の才能がある』と藤堂先生(森山直太朗さん)に言われたときは本当にうれしかったと思います。最終的にそれが成功するかどうかは別にして、息子の夢を応援してやろうと素直に思ったはずです。でも考えてみれば、三郎が商売下手だったということが、息子にとってプラスに働いたのかなとも思います。商売上手であれば、ずっと仕事ばかりしていて、子どものことは母親に任せっきりだったでしょう。だからこそ三郎は、店をほっぽり出してでも、裕一のことを真剣に考えられたんじゃないかな」

 第11週では三郎が病に侵され、生涯の幕を閉じた。
 「親は子どもより先に老いていくもので、こればかりは順番ですから仕方ないですよね。三郎の息子たちへの思いが描かれる週でもあります。これまで、裕一ばかりをかわいがっていたように見えた三郎ですが、彼には彼なりの考えがあった。それを息子たちにきちんと伝えるんです。三郎が父親として整理しておかないといけないと心に決めていたことだったんでしょうね。浩二もずいぶん救われたんじゃないでしょうか」

 第11週で印象に残るシーンは。
 「裕一と2人きりのシーンで、彼に『おまえらのおかげでいい人生だった。ありがとうな』と告げる場面があるのですが、とても印象的でしたね。人間ってやっぱり、誰かのおかげでいい人生かそうでないかが決まってくるものですよね。特に三郎は、周囲のみんなに助けられて生きてきた人。裕一だけでなく、まさ(菊池桃子さん)や浩二、店のみんなに支えられながら生きてきた人です。演じながら『みんながいたから幸せだった』と心から思える場面でしたし、三郎のように最後に幸せだったと言える人こそが真の幸せ者なんだと思いました」

 真骨頂示す役

 窪田さんの俳優としての魅力は。
 「才能ある俳優だと思いますね。どの役でも、そのイメージをちゃんとつかんで、物語の世界に入っていける。作品ごとに違う印象を与えることができる俳優です。『エール』の裕一役は、ある意味、彼の真骨頂じゃないかと思いますね。俳優にとって"強さ"は出せても、裕一のような"弱さ"ってなかなか出せないんですよ。裕一役は、彼の中にある繊細さが存分に生かされた役だと思いますね」

 収録現場での窪田さんはどうか。
 「頑張ってますよ。主役には主役なりの何かが必要なんです。覚悟も含めて、共演者やスタッフを引き込んでいかないといけない。何で引き込むかは人それぞれですけどね。現場にいると『なんとか引っ張っていこう』という彼の座長としての心意気が伝わってきます。彼にアドバイス? ないですよ(笑)。違う人間だし、いくら先輩でもこちらからわざわざ助言するなんてことはありません。でも、逆にじーっと僕のことを見ている気配は感じるかな。僕がスタッフたちとバカ話しているのをじーっと見てる。まねしようとしているのかもね」

 最後に視聴者にメッセージを。
 「このドラマは、音楽でエールを届けようとする夫婦の物語ですが、ぜひとも視聴者の皆さんの力を貸していただきたいと思いますね。『エール』は、皆さんの"エール"で成り立っております!(笑)どうぞよろしくお願いいたします」

 【もっと知りたい】間に合わなかった帰郷

 古関裕而の父・三郎次(さぶろうじ)は、福島市大町で代々続く市内有数の呉服屋「喜多三」の7代目。音楽好きで、大正初期としては珍しい蓄音機を購入し余暇にいつもレコードをかけていた。

 裕而が英国の作曲コンクールで入賞した際、福島民友新聞は三郎次のインタビューを掲載している。「勇治(裕而の本名)の作曲がロンドンで当選したことは初耳で、応募したことさえ知りませんでした。なんの話もありません。時々勇治宛てに外国から書簡が来ましたが、横文字のことですから何が何やら判(わか)りませんでした」(抜粋)

 喜多三は昭和初期に倒産。三郎次は京染を扱う店を開業してひっそりと暮らし1938年に亡くなる。裕而は危篤の知らせを受け急いで帰郷したが間に合わなかった。このときのことを自伝で「『露営の歌』が私の曲だと知って喜んでくれたのも束(つか)の間」と振り返っている。