【 千住 】<行春や鳥啼魚の目は泪> 街道の人波...幻のようにかすむ

 
隅田川から昇る朝日を千住大橋(奥)の北のたもとで仰ぐ。初代の橋は、徳川家康が江戸城に入り4年目の1594(文禄3)年建造された延長約120メートル、幅約7メートルの木造橋。隅田川の橋のうち家康が最初に架けた橋で「大橋」と呼ばれた。撮影場所は船着き場だった(「奥の細道の旅ハンドブック」より)=足立区千住橋戸町

 松尾芭蕉が江戸・深川(現東京都江東区)から「おくのほそ道」の旅に出発したのは1689(元禄2)年3月27日(陽暦5月16日)。明け方、門人杉山杉風(さんぷう)の別宅「採茶庵(さいとあん)」を出て、見送りの門人らと舟に乗ると、隅田川をさかのぼり「千じゆと云所にて」舟から上がった。

 では芭蕉の足跡をたどる旅も舟で出発...とはいかなかった。

 深川と、約10キロ上流の千じゆ、つまり千住の間には今、人が乗れる定期の船便はない。芭蕉の乗船場所も、隅田川に合流する小名木川、採茶庵の前の仙台堀などと、いろいろな本に書かれているが、江東区芭蕉記念館によると「不明」だ。

 それでも船旅を味わおうと水上バスで隅田川を遊覧した。浅草・吾妻橋―日の出桟橋間往復で約90分。参考まで。

 ちなみに、小名木川南岸には「白河」の地名がある。採茶庵跡の最寄り駅も大江戸線・清澄白河駅。これは同地に白河藩主松平定信の墓所、霊厳寺があるためだ(タウン誌「深川」242号)。福島とは縁がある。

 長旅に出る感慨

 それでは再出発。陸路、千住を目指す。地下鉄を乗り継ぎ浅草で下車。雷門前で千住方面へ行くバスの停留所を見つけたが、バスは出たばかり。なので再び地下鉄に乗り、上野で常磐線に乗り換えた。やれやれ、これが舟なら川一本。なるほど芭蕉の旅は合理的だったと納得する。

 こうして、たどり着いたのが南千住駅である。

 芭蕉にとって千住はセンチメンタルな街だ。舟から上陸し、ここから長い旅に出るという感慨で胸がいっぱいになり「幻のちまたに離別の泪(なみだ)をそゝぐ」とある。そして

 〈行春や鳥啼魚の目は泪〉

 過ぎ去る春を惜しみ、鳥はなき魚も涙している、と詠んだ。

 千住は、江戸を起点とする奥州・日光両街道の最初の宿場。江戸の北玄関で舟運の拠点。多くの人と物資が往来した大きな街だ。にぎわいも相当だろう。

 だが、別れに涙する芭蕉の目には、街道の人波が幻のようにかすむ。あるいは、にぎやかな街並みはかすみ、芭蕉と門人たちの姿だけが浮かび上がっているのか。いずれにせよ、この別れの記述は映像的だ。「人々は道に立ち並び後姿が消えるまで見送ってくれるのだろう」の一節も、まるでカメラで撮ったドラマの一場面を思わせる。

 北と南で綱引き

 さて、記者は幻のちまたを行く。千住は興味深い土地だ。北千住駅は東京都足立区、南千住駅は荒川区にある。北と南は隅田川で隔てられた別の街。これを千住大橋がつなぐ。しかし、ともに千住宿。北が初めに開けた本宿、南は街が膨張しできた下宿という。

 この街の構造ゆえ芭蕉を巡る「南北問題」もある。芭蕉像が立つ南千住駅西口ののぼり旗には「奥の細道 矢立初めの地 千住あらかわ」とあった。矢立は、筆を入れる筒の付いた墨つぼ。これで旅の俳人は句を書いた。つまり矢立初めの地は、芭蕉がこの旅最初の句「行春や」を詠んだ所の意味。のぼり旗は荒川区が出発地と宣言する。

 一方、千住大橋を渡った北側、橋のたもとの大橋公園にも「矢立初の碑」があった。

 「芭蕉の出発地点については北と南で綱引きしている」と南千住駅前・コツ通りにある「野田屋酒店森谷」の森谷邦次さん(71)、和子さん(70)夫妻は話す。なるほど芭蕉は、上陸した場所を隅田川の北岸とも南岸とも書いていない。このため足立、荒川両区とも「こちらが矢立初めの地」と譲らず、PRやイベントで競い合っていると言う。

 夫妻は「北の方が発展しているが、昔は、こちら側(川の南)は江戸で、川の北は江戸の外だった。まあ、この辺りは小塚原と言って何もなかったが」と歴史的なライバル関係を語りながら、それが何とも楽しそうだ。

千住

 【 道標 】大胆な発想と表現駆使

 松尾芭蕉は、故郷伊賀上野から江戸に移住した後、日本橋大船町などで町名主を務める小沢太郎兵衛(得入)の手伝いをしていたと考えられます。
 当時の旦那衆の多くがそうだったように、得入も息子の卜尺も俳諧を好んでいました。芭蕉は、小沢家が持つ小田原町の貸家に入るなど、裕福な町人層に支えられ俳諧師になることを夢見ていたわけです。
 芭蕉が江戸で飛躍する契機の一つは、延宝3(1675)年5月、大坂の有名な連歌師、西山宗因を迎えた興行(俳諧を楽しむ集まり)への参加でした。
 当時の俳諧には、奔放な笑いには抑制的な貞門俳諧と、俳諧本来の笑いを取り戻そうとした談林派の二つの潮流がありました。宗因は、談林派の総帥に担がれた人物でした。
 芭蕉は、宗因らとの興行への参加以降、談林俳諧の推進者となり、大胆な発想と表現を駆使した作品によって俳壇を代表する一人に目されるようになりました。また、この興行で用いた桃青の号を以後、正式な俳号としました。
 この2、3年後、34~35歳の芭蕉は、念願だった俳諧宗匠として独立を果たしました。独立には一定の財力と俳壇での信用が欠かせません。財政面では、幕府や大名家を顧客に持つ魚商の杉山杉風が早くから門人になり、援助を惜しみませんでした。芭蕉に人をひきつける人間的な魅力が十分にあったからだと考えられます。
 その後門人も増え、芭蕉一門の存在は知れ渡ります。しかし芭蕉は延宝8(1680)年冬、日本橋から不便な深川へ転居します。理由は不確定ですが芭蕉はこれ以後、俳諧の指導・添削で収入を得ることなく、門人からの援助を受けながら、理想とする俳諧の探究に生涯を費やすようになったことは確かです。(和洋女子大教授・佐藤勝明さん)