【平・勿来】<夜は分る孤雁なるらん捨小舟> なぜ...芭蕉は来なかった

 
大高八景の現代版・勿来八景の一つ「佐糠落雁」の舞台である鮫川河口付近。左岸には相楽等躬作「夜は分る-」が刻まれた句碑が立つ

 ようやく須賀川市に着いた「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)をたどる旅だが、今回いったん、いわき市へと飛ぶ。

 芭蕉は磐城(現いわき市)へは足を踏み入れていない。「では、なぜ」と思う方もおられよう。しかし同時に「須賀川まで来て旧友の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)と再会しながら、なぜ、芭蕉は磐城に行かなかったのか」という疑問も浮上してくるのだ。

 これも「ほそ道」の醍醐味(だいごみ)だろうか。しばし「まわり道」の旅にお付き合い願いたい。

 等躬の存在注目

 須賀川の商人相楽等躬は奥州俳壇を代表する実力者の一人。その彼が、交流を持っていた人物が、磐城平藩の殿様だった。

 須賀川市立博物館によると等躬が初めて「須賀川住中畑乍僤(さたん)」の名で歴史に登場したのは、同藩の第4代藩主内藤義概(よしむね)(風虎(ふうこ))がまとめた句集「桜川」(1672年)だった。この句集には江戸、関西をはじめ、現在の県内を含む各地の俳人の作約7千句が収められ、うち乍の句は12句。この数は風虎の地元磐城と二本松を除けば「特筆されるべき」ものだという。問屋の主人と藩主が直接交流したのか疑問もあるが、等躬が殿様から注目されていたのは間違いない。

 さらに驚くのが等躬の没した土地だ。彼は78歳で亡くなったが、同博物館の年表には「岩城平城外高月邸で死去」とある。

 ここまで来て鈍い記者も思い出した。いわきで「等躬」の名を見た覚えがある。そこで向かったのが勿来の関である。
 いわき市南部にある勿来の関公園は、江戸時代に磐城平藩主が歌枕「勿来関」の地として桜を植えたのが起源。現在も多くの文学碑が立つ歌の名所だ。

 〈吹(ふく)風をなこその関と思へどもみちもせに散(ちる)山桜かな〉と詠んだ平安時代の武将源義家の騎馬像の脇から遊歩道「詩歌の古道」を上ると歌碑の森に分け入った気分になる。そして古道の終わりで最後の碑を見ると、歌碑ではなく句碑。句も見覚えのある芭蕉の〈風流の初やおくの田植うた〉だった。明治初期、地元の俳人たちが建てたもので「ここも風流の初め(東北の玄関)ですよ」と言いたかったのかと、ふと思う。

 深い縁ある土地

 古道近くのいわき市勿来文学歴史館で話を聞く。

 17世紀後半の磐城平藩では、俳諧や和歌をたしなむ藩主風虎が文化振興に力を入れた。江戸・溜池山王の同藩江戸屋敷は、当時の俳壇を代表する北村季吟(きぎん)や西山宗因(そういん)ら多くの文化人が出入りする文芸サロンとなり、国元でも宗因ら大物を招き俳諧の会が盛んに開かれた。

 文化振興は風虎の次男内藤露沾(ろせん)(藩主にはならなかった)に受け継がれ、露沾が江戸・麻布六本木に持っていた屋敷も文芸サロンとなった。実は芭蕉も、このサロンの一員であり、等躬も風虎の代からこのネットワークには連なっていた。芭蕉が等躬を「故人=旧友」と記したのも、こういうわけだ。

 等躬と磐城とのゆかり、俳諧人脈の中で発揮された等躬の存在感を伝えるものが勿来地区にあった。鮫川の河口付近に立つ彼の句碑である。

 〈夜(よ)は分(わく)る孤雁(こがん)なるらん捨小舟(すてこぶね)〉(一隻だけ川に捨てられている小舟は、夜の闇にはぐれた孤独な雁のようなものだろうか)。「露沾俳諧集」にある勿来地区の美しい風景を詠んだ「大高八景」などをもとに、2009(平成21)年地元で選ばれた「勿来八景」の一句だ。

 同歴史館の中山雅弘館長は「『ほそ道』の旅で、芭蕉が須賀川と同じく縁のある磐城に来なかったのは不思議。芭蕉のおいといわれる天野桃隣でさえ来ているのに」と実に悔しそうだ。

 この「来なかった理由」を医療創生大客員教授で、いわき地域学會副代表幹事の夏井芳徳さん(59)は〈1〉中通りが魅力的だった〈2〉すでに西山宗因が約30年前、磐城を訪れ「奥州紀行」を書いており、二番煎(せん)じを避けた〈3〉仲の良かった露沾が当時は江戸住まいで磐城には居なかったから(磐城に住むのは1695年以降)―と推論する。

 極めて論理的だが「露沾が磐城に移ったのは江戸の屋敷が類焼した後。露沾がもっと早くから磐城に居れば、芭蕉は須賀川から等躬と一緒に来ていたはず。来ていれば、多くの家臣が俳諧をたしなんだ土地柄。毎日、句を詠んで何日も滞在したはずだ。そして当時の町の様子も書いていたでしょう」と夏井さんも口惜しそう。「なぜ芭蕉は来なかったのか」は、いわきにくすぶる思いのようだ。

【平・勿来】<夜は分る孤雁なるらん捨小舟>

 【 道標 】内藤家3代で俳諧支援

 芭蕉が生きた1600年代の俳壇には、芭蕉以前の世代に松永貞徳(ていとく)、西山宗因(そういん)、北村季吟(きぎん)という代表的な俳諧師がいました。そして貞徳、季吟らの貞門派、宗因を中心とする談林派という潮流が生まれました。
 一方、この時期、磐城平藩には内藤義概(よしむね)(1619~85年)という殿様(1670年から藩主)がいました。俳諧や和歌をたしなみ風虎(ふうこ)の雅号を持つ人で、宗因、季吟とは大変親しい関係にありました。
 風虎は「桜川」という句集を編み、松山玖也(きゅうや)という宗因の弟子が編さんに当たったのですが、収録された句は季吟の方が多い。風虎は流派に関係なく俳壇の実力者との間に交友関係を広げていたことが分かります。
 こうした関係から宗因は1662年、江戸から松島まで旅した折、風虎の招きで磐城に滞在しています。行きに1カ月ほど滞在し、帰りも磐城に寄りました。この旅をもとに宗因は「奥州紀行」を記し、磐城の風物を詠んでいます。
 この時の藩主は風虎の父忠興(ただおき)でしたが、彼も息子が俳諧をたしなむことを城主として支援していたわけです。歌枕「勿来の関」を現在のいわき市勿来町に造らせたのも忠興でした。
 さらに風虎の次男(実質的に長男)内藤義英(よしひで)(1655~1733年)も露沾(ろせん)と号した俳人で、父と同じく俳諧の支援者として知られます。宗因らの下の世代に当たる芭蕉とは年が比較的近かったこともあり、かなり親しい関係でした。
 露沾は、芭蕉が「笈(おい)の小文」と「おくのほそ道」の旅に出る時、餞別(せんべつ)の句を贈っています。特に「笈の小文」の冒頭には、この露沾の句〈時は冬吉野をこめん旅のつと〉が記されています。
 こうして内藤家3代が種をまき育てた文化のネットワークをたどり江戸時代、磐城には多くの文化人が集いました。須賀川の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)もその一人でした。(医療創生大客員教授、いわき地域学會副代表幹事・夏井芳徳さん)