【郡山・中町】<旅寝して我が句を知れや秋の風>街を歩けば見えてくる

 
なかまち夢通り(奥州街道)と芭蕉通りを結ぶ芭蕉小路。夢通り側はビルの中、芭蕉通り側は蔵造りの飲食店とビルとの間の通路になっている=郡山市中町7番

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)では、松尾芭蕉に一句どころか一言も記されぬまま通過された郡山宿(現郡山市中町)だった。しかし実は、現郡山市域の歌枕「安積山(浅香山)」を詠んだ句〈安積山かたびらほして通りけり〉が「芭蕉の句である」と、江戸時代から地元郡山でも江戸でも伝えられていた。その事実が最近、安積国造神社(郡山市)安藤智重宮司の調べで分かった。ここまでが前回。

 そうと知ると、芭蕉とは無縁にも思えた郡山市の中心街が興味深く見えてきた。「まわり道」の旅は俳聖のおぼろげな面影をたずね中町界隈(かいわい)を巡る。

 子孫は思い複雑

 芭蕉と河合曽良が1689(元禄2)年4月29日(陽暦6月16日)から1泊した郡山での宿は「現郡山市中町の斎藤方」だと地元では伝えられている。

 この情報を手掛かりに調べると、斎藤家の子孫にたどり着いた。中町11番の酒屋「つたや」。専務の斎藤淳宏さん(61)は「うちは分家で、本家は現在の中町7番。うすい百貨店の前の通り(なかまち夢通り=奥州街道)に面した、居酒屋の辺りにあった。伝わっている家系図によると、当時の主人は斎藤惣右衛門。別名は洞水といい、これは俳号のようだ」と話す。

 (注・山崎義人編著『ふくしま散歩 県中・県南』にも、「芭蕉通り」辺りの斎藤洞水方に泊まったと記述がある。同書では、惣右衛門は「宗右衛門」と表記されている)

 そして、斎藤さんの話は曽良の「日記」に及ぶ。郡山宿で泊まった際「宿ムサカリシ」(宿が汚い)と記された件だ。

 「『宿ムサカリシ』の「宿」は、泊まった家のことといわれるが、宿場自体のことではないかと思う。郡山宿は江戸初期につくられた比較的新しい町。当時はまだ小さかっただろう。宿場の俗っぽさも芭蕉の趣味に合わなかったのでは」と、先祖を良く言われなかったことへの複雑な思いをのぞかせる。

 平和な江戸時代になって全国の宿場が整備され、郡山宿も整えられていった。それまで阿武隈川の左岸近くを走っていた奥州街道が、従来より西に移設整備された際、元々の郡山村と住民が移ったのだ。郡山村は、二本松藩の地誌「相生集」によると永享年間(1429~41年)に開かれた。現在の同市方八町、芳賀の辺りにあったという。

 斎藤家も郡山宿の約1キロ南、小原田宿から移り住んだという。元をたどると小原田宿の検断(江戸時代では村役人)だった斎藤家の分家で、17世紀半ばに移住したらしい。

 ただ、芭蕉が訪れた当時の郡山宿は、決して小さくはなかった。元禄2年の同宿の人口は、人別帳から1800人前後と推計されている(郡山市編「郡山の歴史」)。安積国造神社の安藤宮司は「江戸時代の平均的な村落の人口は約400人とのデータがある。1800人の宿場は結構にぎわっていただろう」と言い「それに芭蕉が泊まった宿も、農家である斎藤家の自宅ではなく、宿屋は別棟だったはず。大きな農家だから、自宅は立派でしょう」と話す。

 いずれにせよ曽良も罪な日記を残したものだ―と思いながら、なかまち夢通りを散策していると「芭蕉小路」の看板に出くわした。

 ビルの間に小路

 みずほ銀行郡山支店北隣のビルの1階。看板の下、間口1間(約1.8メートル)ほどの通路が西へ、ビルの真ん中を突き抜けている。ビルを通り抜けると、小路はさらに続く。飲食店になった蔵とビルの隙間。薄暗さに風情がある。途中「芭蕉小路」の石柱の傍らでホトトギスの花が彩りを添えていた。

 芭蕉小路を抜けると丁字路。出合った南北の小道は、その名も「芭蕉通り」だという。この道を、飲食店などが入ったビルとビルの谷間を北へ進む。すると、駅前大通りに抜ける手前、駐車場の片隅で「芭蕉通り」の石柱が所在なげに立っているのを見つけた。郡山市歴史資料館の柳田春子学芸員は「昔から地元では、芭蕉が歩いてきた道といわれてきたようです。小原田宿の近くから真っすぐ、奥州街道と並行して延びる道筋は今もあまり変わりません」と言う。

 実際に歩くと、いろいろと出会うものだ。逆に歩かないと見えてこない。そんなことを詠んだ芭蕉の句を見つけた。

〈旅寝して我が句を知れや秋の風〉(野ざらし紀行画巻)。「旅の句の真価は、身にしむ秋風の中で旅寝して、その喜怒哀楽を体験した人にのみわかるもの。私の句を読む人よ。どうか旅をした上で味わってほしい―の意」(今栄蔵「芭蕉句集」)

 (参考・郡山市編「郡山の歴史 ダイジェスト版」など)

【郡山・中町】<旅寝して我が句を知れや秋の風>

 【 道標 】正風受け継ぐ郡山俳壇

 松尾芭蕉の来訪から80年ほどたった18世紀後半、郡山宿では、芭蕉の作風を受け継ぎ、実力を持った俳人たちが登場しました。その郡山俳壇の中心人物が、佐々木露秀(ろしゅう)(1735~1807年)と、その弟で本宮宿の商人となった塩田冥々(めいめい)(1740~1823年)です。露秀らのことは庄司一幸氏が研究されています。
 郡山俳壇誕生のいきさつは安積国造神社の55代宮司、安藤親重が1831(天保2)年、覚書に記しています。それによると郡山宿には当時、俳諧を好む人も多かったのですが、実力を身に付けたのは師との出会いからでした。その師が、磐城生まれの能楽師、俳人の二世服部(露仏庵)沾圃(せんぼ)(1701~73年)。一世沾圃は、芭蕉の晩年の弟子です。
 二世沾圃は、芭蕉と交流のあった磐城平藩主の次男内藤露沾(ろせん)に20歳の頃から仕え、豊かな文芸の才能を愛されました。露沾の没後は各地を巡り、郡山宿を訪れたのは宝暦年間(1751~64年)の初めでした。
 郡山での沾圃の門人では、露秀が儒学に優れていたこともあり群を抜いて優秀でした。露国、露滴(水戸新左衛門)、左考(沢屋、遠藤左五右衛門)、沾三といった門人も熱心で、左考、露滴、青二(田村屋、国分荘蔵)たちは長く俳諧を続け、安積国造神社に発句、連歌を奉納もしています。沾圃の筆です。
 その後、露秀と冥々は安積、田村、安達、岩瀬の俳壇の大きな勢力となり、芭蕉が大成した正風(蕉風)俳諧を広げていきました。さらに1768(明和5)年、俳諧集「俳諧三本桜」を出版すると、その名は全国区となりました。
 現在、同市清水台の善導寺には1779(安永8)年、沾圃の七回忌に露秀らが建立した師の顕彰碑が立ち、郡山俳壇の生みの親、沾圃の功績をたたえています。(安積国造神社宮司・安藤智重さん)