【「きんつば」といえば?】会津では大判焼き、刀の鍔が由来

 

 一般に大判焼き、今川焼きなどと呼ばれる、あのおやつを「きんつば」と呼ぶという情報が、会津地方の読者やリスナーを中心に寄せられた。きんつばは、粒あんを薄い皮で包んで焼いた、四角い和菓子のことでは? 謎に迫る。

 「名物」文化守る

 投稿では「学校帰りのバスの待ち時間に、焼きたてのきんつばを2個食べていました! 外はカリカリ、中はとろーり、甘さ控えめの田原屋のきんつば、忘れられない味です」(喜多方市出身・yumingさん)、「喜多方で『きんつば』と言いつつ大判焼きが出てきた時はびっくりしました!!」(福島市出身・なっちゃん)、「会津では大判焼きを『きんつば』と呼ぶ人の方が多い気がします」(あかねあおいloveさん)など、続々と「証言」が届いた。

 会津美里町では、きんつばを名物として町のホームページでも紹介している。「高田お文殊さまのきんつば」(会津若松市・ささいぬさん)として親しまれている同町の佐藤きんつば店は、60年ほど前からきんつばを作り続け、現在は町のイメージキャラクター「あいづじげん」をかたどったものを販売している。店主の佐藤孝一さんによると、現在町内できんつばを作っているのは2軒だけで、「きんつばという文化を守らなければ」と話す。

230413kokohore701-1.jpg※写真=会津美里町の佐藤きんつば店で販売している「あいづじげん」をかたどったきんつば

 刀の鍔が由来

そもそも「きんつば」という名前は、刀の鍔(つば)の形を模したことが由来とされる。1600年代に京都で「銀鍔焼き」の名で発売し、当時は「うるち米の粉を練って小豆あんを包み、油をひいた金属板の上で焼いた菓子」(広辞苑)とある。この菓子が1800年代に江戸で流行し、その際に材料が米粉から小麦粉に変わり、名称も「金鍔焼き」に変化したといわれる。また、当時のきんつばは丸く平らな形だったという。この作り方や形から想像すると、現在の四角いきんつばとも今川焼きとも少々異なる菓子のようだ。

 この、江戸時代からの製法で現在も作り続けているのが、東京の老舗菓子店、栄太楼総本舗の「名代(なだい)金鍔」だ。たっぷりのあんを小麦粉の生地で薄く包み、ごま油を引いた銅板で香ばしく焼いて作る。200年以上にわたり受け継がれた工程は手作業が多く、熟練の技術が不可欠だ。このきんつばが、生産性や作りやすさを求めて各地で時代とともに変化した結果、現在の四角形や大判焼きに枝分かれしたと考えられる。

230413kokohore701-2.jpg※写真=江戸時代から伝わる製法で作る栄太楼総本舗の「名代金鍔」

 きんつばと聞いて多くの人が思い浮かべる四角いきんつばも、30年ほど前から栗きんつばを製造販売している福島市の菓子店ニューキムラヤの金木節子専務に聞くと、「手間がかかるせいか、作る店は減っているようだ」と言う。

230413kokohore701-3.jpg※写真=福島市のニューキムラヤで販売している栗きんつば

 ほかにも、きんつばと呼ばれる菓子にはバリエーションがある。例えば、お菓子のさかい(石川町)の「夢金つば」は1913(大正2)年の創業当時から作っており、四角いきんつばとは製法が異なる「蒸しきんつば」だ。形は丸く、透き通るほど薄い皮であんを包んでいる。富山県にもきんつばを発見した。こちらも丸形で、見た目はいわきの銘菓「じゃんがら」に似ている。

 どのきんつばも、形や製法は違えど、小麦粉がベースの生地で粒あんを包むという点は共通している。いずれも、限られた材料でいかにおいしく喜ばれる菓子を作るかという職人たちの試行錯誤の歴史が、一個のきんつばに詰まっている。(佐藤香)