福島県南相馬市小高区の半杭一成(はんぐい・いっせい)さん(75)の牛舎では、東京電力福島第1原発事故による避難中、飼っていた牛が飢えの中で命を落とした。牛舎には腹をすかせた牛がかじり、細くなった柱が寂しく立つ。愛情を込めて「牛さん」と呼ぶ半杭さんは「牛さんごめん」と申し訳なさを思い、牛のいない牛舎を残している。
「家族同然」
小高区大富地区周辺では酪農が盛んで、半杭さんも20代で酪農を始めた。最大で60頭を飼育し、朝5時の牛舎の掃除に始まり、搾乳は1日2回。牧草も育て、仕事が終わるのは夜9時ごろだった。「牛さんは家族同然」と遠出はできず、冠婚葬祭の際も帰りを逆算して出かけていた。
東日本大震災の発生から3日後の2011年3月14日。原発事故で避難生活が始まった。1週間ほどで帰れると思っていたが、戻れない日々が続いた。牛の避難先もない上、大富地区では農業で生計を立てている人もおり、逃がすことができなかった。
4月中旬にようやく一時帰宅したが「牛さんに合わせる顔がない」と牛舎に入れなかった。原発事故から3カ月後、初めて牛舎に入ると、牛は変わり果てた姿になっていた。「これがかわいがってきた牛さんか。物言わない動物を見殺しにしてしまった」。40頭いた牛のうち34頭が餓死した。餌も水もない中、牛が何とか命をつなごうとかじった柱は細くなっていた。「柱までかじって生きようとしたんだ」。言葉が出なかった。
学生が訪問
周辺の酪農家も愛情を込めて育てた牛を失い、震災から14年たった今でも、牛のことは誰も語らない。それでも、半杭さんは「酪農で子どもを育てることができた。牛舎は壊せない」と牛舎を保存し「100年先にも伝えたい」と小高を去る際に獣医師から言われた言葉「無念」を刻んだ石碑を建てた。
「命の大切さを知ってほしい」と半杭さんは現在、牛舎を訪れる学生に当時の様子などを説明しており、学生からもらった絵を大事にしている。半杭さんの家の上に広がる青空で、牛が寝転ぶ絵だ。「寝そべり反すうしている時が牛さんにとって一番幸せで安心できる時間。見殺しにしてしまったけど、牛さんが天国にいる」。半杭さんは祈るように絵を見つめた。