【浜通り13物語】第2部・伊達屋の帰還/「俺がやるしかない」

 
本格的な除染開始の前に、スタンドで放射線量を測る吉田学氏。彼の説得が吉田知成氏の心を動かした

 除染で線量低減 響いた「故郷のため一緒に」

 「ガソリンスタンド、何とかならないかな」。2015(平成27)年、双葉町出身の吉田知成は、実家の「伊達屋」が運営していた国道6号沿いのスタンド再開を頼まれた。説得に来たのは双葉高の同級生だった吉田学。学は東京電力福島第1原発事故後、いわき市で設計・建設会社を起業していた。

 この頃、住民がしばらく帰ることができない「帰還困難区域」に指定された双葉町内でも、将来の地域再生に向けたさまざまな工事が進められようとしていた。復興事業者にとって現場近くで燃料を調達できる利点は大きく、原発事故で休止している伊達屋のスタンド再開が求められていた。学は、大手ゼネコンを含めた現場の事業者の声を聞き、知成に何度となくアプローチした。

 原発事故を受けて「もう双葉に帰って家業を継ぐことはないだろう」と考え、すでに東京都内に居を定めていた知成だったが、学の粘り強い説得に折れた。「そこまで言うんだったら、一度現地に行ってみようぜ。放射線量が高かったら話にならないし、再開するにしても時間がかかるだろう」。15年の冬、知成と学は通行許可を取った車でガソリンスタンドに向かい、持って行った線量計で測ってみた。数値は高かった。

 しかし、そこから事態が動き出す。学のアドバイスもあり、伊達屋のガソリンスタンドは、復興に必要な役割を果たす事業者の営業再開を後押しするための除染対象に選ばれる。除染が始まったのは16年春のことだった。知成は「除染で線量はどこまで落ちるのだろう」と考えていた。埼玉県に避難していた父の俊秀も「やる、やらないは別にして、線量が落ちるかどうかだ」と語っていた。

 面的な除染をしても、放射線量がなかなか落ちない「ホットスポット」があった。コンクリートをセンチ単位で削って線量を落とすことになり一番深い所で10センチ削った。作業開始から半年後の16年10月に除染は終了し、線量は低減した。「伊達屋のスタンドの除染が終わった」という情報は、関係者の間で広がっていった。

 現場で動いている企業からは「やってもらわないと困る」との声が上がる。行政からは「除染をして線量が落ちたと聞いたのですが、やってもらえませんか」と依頼が来る。「いよいよ、考えなければいけないな」と選択を迫られた。

 知成は考えた。スタンドを経営していた父はもう60代後半。「生まれ故郷のために一緒にやろう」。すでに復興事業に関わっていた学の誘いの言葉も心に響いた。「俺がやるしかない」。腹を決めた。(文中敬称略)