【浜通り13物語】第4部・俺たちはできる/同級生の共感を後押し

 
吉田学氏らが参加し20年にいわき市で開かれたゴルフ大会。このような場を通じて復興に思いのある若手たちが結び付いていった

 「地域の枠」どう克服

 大熊町出身の吉田学は2011(平成23)年の東京電力福島第1原発事故後、家族がいる首都圏と本県とでの二重生活を続けていた。その頃、本県でテレビをつけると「浪江焼麺太国(やきそばたいこく)」のリーダーだった八島貞之ら自分より上の世代が率先して地域再生に向けて活動する姿が映し出された。吉田は「自分にはまだそんな余裕はない」と思いつつも「すごいな」と刺激を受けていた。

 14年にいわき市で設計・建設会社を起業すると、県内での活動が増えた。報道で知っていた先輩格の人に加え、各地の法人会や青年会議所、商工会青年部などで活動する同世代と出会うようになり、「こんなにも多くの人が復興に向けて頑張っているのか」と感銘を受けた。同時に、自らも復興事業を担う一員として浜通り各地を歩く中で、どうしても「地域の枠」の存在を感じるようになった。

 「地域の枠を超えて連携したり、助け合ったりすれば、それぞれの良い活動はもっと広がっていくのではないか」。この思いを最初に話したのは16年ごろ、信頼していた富岡町出身の宮本政範ら双葉高の同級生に対してだった。東日本大震災後、それぞれ別の道を歩んできたが、彼らは吉田の考えに共感してくれた。なかでも宮本は「やるんなら俺らが支える。お前が前に出ろ」と力強く背中を押してくれた。

 宮本も勝算なく、彼を励ましたわけではなかった。「企業の代表としてそれぞれの地元で活動している同級生がたくさんいた。豊富な人脈を持っている同級生や後輩もいて、みんな集めれば俺たちは何でもできるんじゃないかと考えていた」と、当時の思いを振り返る。18、19年ごろになると、吉田や宮本ら同級生の一団は、それぞれに地域再生や復興への思いを持っている若手らと幅広く交流するようになっていた。

 そして、震災10年が意識されるようになった頃、自然に「震災から10年頑張ってきた。何かできたらいいな」「そろそろ一回集まって話してみないか」と、連携の枠組みづくりの機運が高まっていった。当時の関係者の話を総合すると、20年2月ごろ、吉田学や八島貞之ら数人のメンバーが集まった。これが広域連携組織「HAMADOORI13(浜通りサーティーン)」の設立に向けた始まりとされる。

 「地域のために何かしたい」と集まった彼らは、やがて「何かしたい」から「何のために」、そして「何をするか」と議論を深める中で30人程度の集団になっていく。その際に重要な役割を果たしたのが、吉田がメディアを通じて地域再生に向けた先駆的な奮闘を知り、大いに刺激を受けた富岡町出身の「先輩格」の男であった。(文中敬称略)=おわり

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 この連載は菅野篤司が担当しました。