【エールのB面】「長崎の鐘」を訪ねて 心に響き続ける...平和の願い

 
平和公園には1977年にモニュメントとして「長崎の鐘」が建立された。鐘を鳴らし続け恒久平和を世界に訴える思いが込められた

 作曲家古関裕而は戦後、傷ついた人々の心を音楽で癒やし、日本を明るくすることに力を注いだ。14日に再開する朝ドラ「エール」では、古関の代表曲の一つ「長崎の鐘」を作曲する場面が描かれる。劇中でも「どん底から立ち上がるターニングポイントになる」(土屋勝裕制作統括)という。戦後75年を迎えた8月、珠玉の古関メロディーの舞台である長崎を訪ねた。

 一発の原爆(注1)で焦土と化した長崎市。「75年は草木が生えない」といわれたが、活気あふれる港湾都市を取り戻し、世界に恒久平和を訴える発信地になった。爆心地から北東約500メートルの高台に立つ巨大な双塔が目印の「浦上天主堂(注2)」の前に立ち、復興を果たした長崎の人々の強さに改めて感服した。

 浦上天主堂には奇跡的に焼け残った「被爆マリア像」が安置されている。屋外には原爆の熱線や爆風を受けた石像や旧天主堂鐘楼の残骸が残され、惨状を伝える。旧天主堂鐘楼にあった「アンジェラス(天使)の鐘」は、がれきの中からほぼ完全な状態で見つかり、今も使われている。"天使のお告げ"を原子野(げんしや)(原爆で焦土と化した地)に鳴り響かせて人々を勇気づけたこの鐘が「長崎の鐘」だ。

 本がきっかけ

 「こよなく晴れた青空を☆」。古関メロディーの名曲「長崎の鐘」は1949(昭和24)年に発売された。医学博士永井隆(注3)の著書に感動したサトウハチローが作詞した。永井の崇高な人生を詩・曲・歌で格調高く歌い上げ、大ヒットしている。平和公園にいた地元住民に曲の印象を聞くと「涙を誘う」「カラオケで必ず歌う」とのこと。地元では今も特別な思いで歌われている。

 古関は自伝「鐘よ鳴り響け」で「単に長崎だけでなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って『なぐさめ』の部分から長調に転じて力強くした」と振り返った。テレビ番組では、自身が作曲した戦時歌謡を歌って若者が出征したことに胸が痛むとした上で「原爆で亡くなった方、戦時下に亡くなった大勢の人たちの霊を慰めるレクイエムのつもりで書いた」と語っていた。

 平和強く願う

 永井は戦時中に白血病を発症し、原爆で妻を失い、自身も被爆して重傷を負ったが、献身的に被爆者の治療を続けた。終戦後の46年1月から病床に伏したが、原爆投下の惨状を記録した「長崎の鐘」、わが子の成長を見届けることができない悲しみをつづった「この子を残して」などの著作を発表した。永井を詳しく知りたい―。浦上天主堂近くで遺品や写真を展示する「長崎市永井隆記念館」に向かった。

 「歌謡曲や著書を通し、『長崎の鐘』が皆さんの心に残ることは素晴らしい」。永井の孫で同記念館の館長を務める永井徳三郎さん(54)は語る。記念館の脇には、地元の人々が永井のためにと48年に建てた2畳一間の木造の住まい「如己堂(にょこどう)」が現存している。「如己」とは「己の如(ごと)く隣人を愛せよ」との聖句からとったもので、永井の座右の銘でもあった。

 永井は如己堂で2人の子どもと過ごし、原稿を書き研究を続けた。徳三郎さんに永井の話を聞くと「父(故誠一さん)に聞いたところでは家庭では特別なところがない普通の父親だった。ただ、平和への思いは強く抱いていた」と教えてくれた。「エール」で歌謡曲「長崎の鐘」の誕生秘話が描かれることもあり、「祖父の平和への願いを広く発信してもらいたい」と期待を寄せる。

 お互い救いに

 歌謡曲「長崎の鐘」を機に古関と永井の交流が始まる。49年4月、永井は古関宛ての手紙で「私たち浦上原子野の住人の心にぴったりした曲であり、ほんとうになぐさめ、はげまし、明るい希望を与えていただけた」と記した。その後、古関に手作りのロザリオなども贈った。

 50年には「長崎の鐘」が映画化され、古関が音楽を担当した。永井は同年9月の手紙で「多くの戦争犠牲者の心にしみいり、慰め励まし、立ち上がる力を与えています」と絶賛した。永井は51年に死去し、古関が生前に会うことはなかった。だが、古関メロディーが永井に生きる勇気を与え、古関も永井の言葉で戦争の「呪縛」から解放されただろう。

 長崎原爆資料館と追悼平和祈念館では、長崎市民でつくるボランティア団体が被爆体験記を朗読していた。新型コロナウイルス感染拡大で活動を自粛していたが、8月から再開したという。「『長崎の鐘』ほど心にしみる曲はない」。如己堂近くで生まれ育った会員の女性は言葉に力を込める。古関の平和を願う鐘の音は、戦後75年の今も人々の心の中で高らかに響いている。

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 (注1)長崎への原爆投下 太平洋戦争末期の1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、米軍によって投下された原子爆弾は長崎市北部の上空約500メートルで猛烈な閃光(せんこう)を伴って爆発。爆風と熱線、放射線により街は廃虚と化し、推定人口約24万人のうち約15万人が死傷した。生き残った人々も心身に大きな痛手を受け、多くの被爆者が今なお苦しんでいる。

 (注2)浦上天主堂 明治時代に、弾圧に耐え続け信仰の自由を得た浦上のキリスト教信者が建立。東洋一の大聖堂で30年の年月をかけて1925年に完成。原爆で一瞬のうちに崩壊し、建物内にいた神父や信徒20人超が犠牲になった。59年再建の現在の天主堂からは原爆の爆風に耐えたアンジェラスの鐘が1日3回響き渡る。当時の遺壁の一部は原爆落下中心地に移設され、長崎原爆資料館に再現造型などが展示されている。

 (注3)永井隆 1908(明治41)年、島根県松江市生まれ。旧制長崎医大(現長崎大医学部)卒業後は放射線物理療法の研究に取り組み、軍医などを経て長崎医大の助教授に就任。エックス線検診に従事した影響で45年6月に白血病で「余命3年」と診断。原爆投下時は長崎医大におり割れたガラスで重傷を負った。被爆直後から負傷者の救護に当たる。46年病状が悪化し病床に伏す。「如己堂(にょこどう)」で執筆活動を続けて平和を訴える。51年5月1日に43歳で息を引き取った。長崎市名誉市民。