【 白河・旗宿 】<西か東か先早苗にも風の音>空白に残した一対の句

 
古木の間を進む白河神社裏手(東側)の参道。神社周辺は古くから神域、文化財として保護され、その風景は、いにしえの道の姿を思い起こさせる

 陸奥(みちのく)の入り口「境の明神」にたどり着いた松尾芭蕉と河合曽良は、いよいよ未知の地へと歩みを進めていく。日付は前回と変わらず1689(元禄2)年4月20日(陽暦6月7日)。二人は国境を過ぎ街道を少し北へ進むと、東へ脇道にそれた。真っすぐ進めば白河城下だが、芭蕉らが選んだのは山の中を行く細道だった。

 曽良の「日記」には「古関を尋て白坂ノ町ノ入口より右ヘ切レテ、籏宿ヘ行」とある。籏宿(はたじゅく)は現在の白河市旗宿。その地にある古関跡、つまり古代に造られた「白河の関」跡の探訪が目的だった。

 遠回りいとわず

 補足すると「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の白河の記述は、前回掲載の白河の関ゆかりの古歌をコラージュした名文と、曽良の句〈卯(う)の花をかざしに関の晴着(はれぎ)かな〉で完結している。次の文では「とかくして越行(こえゆく)まゝに...」とすでに白河の外。一瞬で、白河の関どころか、古関跡も白河城下も飛び越えてしまう。

 しかし飛び越えた「空白」「余白」は実は奥行きに富んだものだ。曽良の「日記」の長い記述がそれを物語っている。記者の旅も、「日記」に記された足取りを追う。

 奥州街道、現在の国道294号を福島・栃木県境から北へ約1キロ行き、右手に「旗宿」の案内板が見えた所で右折した。

 舗装道だが道幅は狭い。所々にカーブ。4キロ足らず先で、右へ行く分かれ道が現れた。直進すれば「南湖公園」、曲がれば「旗宿」の標識に従い右折すると、山が徐々に深くなってきた。輝くような新緑が美しい。

 この山里の風景は多分、芭蕉が歩いた頃とさほど変わらないのだろう―と思いつつ約2キロ進み(途中の分かれ道に注意)、突き当たりを左折。さらに約1キロ坂を下ると旗宿の南端に出た。

 計7キロ弱。このルートが芭蕉らがたどったと推定される旗宿への山道だ。

 蛇足だが、この山道を途中から真っすぐ西へ行くとどこへ着くのか、地図も見ずたどってみた。途中で地元の女性に聞くと、栃木側に出ると言い、記者が「白坂の手前から山道を来た」と言うと「それは大変な道を」とねぎらいの言葉をいただいた。

 確かに旗宿から西へ行くと約5キロで那須町寄居に出た。つまり国道294号を県境まで行かず、途中で東へ折れれば旗宿まで近道を来られたのである。この近道、実は「日記」にも記されていた。疲れていただろうに、遠回りをいとわない修験者のような芭蕉に畏怖したのだった。

 さて、旗宿で1泊した芭蕉たちは翌4月21日、霧雨の中、集落の西にある住吉・玉津島の神をまつる神社を参拝した。宿の主に、この神社がいにしえの関の明神だと聞いたからだ。同神社が、旗宿付近に古関があった証拠というわけだ。二人はこの後、集落から1里半(実際は約4キロ)北北東にある関山(618メートル)に登り、山頂の満願寺を参拝した後、白河の城下へ向かった。

 いにしえの気配

 現在も旗宿は、東山道の後身だろう県道伊王野白河線沿いに集落があった。その南側に白河神社のまつられた「関の森」と呼ばれる緑の丘。さらに白河関の森公園が隣接する。

 関の森は国指定史跡「白河関跡」だ。白河藩主松平定信がこの地を古関跡と定め建立した「古関蹟」の碑が、今も鳥居の向かって右に立つ。ただ、芭蕉らが参拝した関の明神の位置は「日記」には町の「西」、定信の碑にも宿村の「西」とあるのに、ここは「南」。どうも頭の整理がつかない(「道標」参照)。

 それでも関の森は、現代の旅人を優しく迎えてくれる。白河の関の一節を刻んだ、加藤楸邨揮毫(きごう)の「おくのほそ道」の碑、平兼盛や能因の歌を刻んだ古歌碑などが点在する。丘の東側をたどる散策路は太い木々に覆われ、小鳥やカエルの声が響き渡る。いにしえの旅人が往来した道の姿がそこにあるように見えた。

 県道を公園の方へ少し行くと白河神社社務所の傍らに、新しい碑があった。〈関守の宿を水鶏(くいな)にとはふもの〉と芭蕉の句が刻まれている。社務所をあずかる川瀬ムツ子さん(74)が、自身を含む神社ゆかりの人々が2013(平成25)年、建立したと教えてくれた。

 旗宿には、もう一つ30年前の「おくのほそ道」300年に際し建立された〈西か東か先(まず)早苗にも風の音〉の芭蕉の句碑が県道沿いにある。この二つの句は、白河で詠まれながら「ほそ道」には掲載されなかった作品で、川瀬さんに言わせると「ペアの句」だ。ただ「関守―」の句碑は26年前、白河市街地の聯芳寺(れんぽうじ)に建立され、離ればなれだった。

 川瀬さんたちは、この一対の句碑を旗宿にそろえたかったらしい。川瀬さんは気さくに話しながら「まあ、自称ですけれど」と名刺をくれた。肩書には「関守」とあった。(「日記」の表記は頴原退蔵・尾形仂訳注「新版 おくのほそ道」による)

白河・旗宿

【 道標 】旅人惑わす古関跡の幻

 白河の関は7、8世紀、奈良の中央政権が築いた軍事拠点と考えられている。しかし、正確な場所は昔から謎だ。
 旗宿周辺は古くから古関跡候補として知られる。根拠は古代の幹線道路「東山道」にある。
 前那須歴史探訪館長の斉藤宏寿さん(76)らによると東山道の福島・栃木県境付近の推定ルートは、大田原市余瀬―那須町伊王野―白河市旗宿。イメージとしては伊王野までが国道294号と並行。伊王野以北が県道伊王野白河線と重なる。古代の関は、この東山道沿いの国境付近とするのが旗宿周辺説だ。
 ただ、正確な場所には諸説ある。まず、芭蕉らが旗宿を目指したことから当時、古関跡が同宿付近にあったと広く考えられていたことが分かる。曽良の「日記」にも(旗宿の)「町ヨリ西ノ方ニ住吉・玉津島ヲ一所ニ祝奉(いわいたてまつる)宮有。古(いにしへ)ノ関ノ明神ニ二所ノ関ノ名有ノ由、宿ノ主申ニ依テ参詣。ソレヨリ戻リテ関山へ参詣」とある。
 しかし、その7年後の1696(元禄9)年、芭蕉の三回忌に現地を訪れた俳人、天野桃隣の著作「陸奥鵆(むつちどり)」には「関山へ登ル。(中略)此所往昔の関所と也」。桃隣は、誰かに旗宿の北北東の山「関山」が古関跡と教えられたらしい。
 約100年後には白河藩主松平定信が著「退閑雑記」(寛政9=1797~98年自序)で「境の明神が白河の関跡と考えられているようだが、間違いだ。旗宿の小川のあたりに玉津島と住吉二つの神社があり、ここが古関の跡である。関山はその近くにあるのでその名がある」(意訳)と記した。さらに定信は1800(寛政12)年、旗宿南の丘、関ノ森遺跡を古関跡と断定し碑を建立。その後、関の森は学術調査の末、1966(昭和41)年、国から「白河関跡」として史跡指定を受けている。
 ただ「日記」や定信の碑では、関ノ明神の位置は「旗宿の西」だが、関の森は、現実には同宿の南にある。白河の関は今も、訪れる旅人たちを幻惑する。
 (編集局。参考・久富哲雄著「奥の細道の旅ハンドブック」、金子誠三ら著「白河」)