【 旗宿~白河城下 】<早苗にも我色黒き日数哉> 生身の芭蕉そこに

 
新白河駅正面口前の芭蕉像。黒光りする顔が「早苗にも我色黒き日数哉」の句を連想させなくもない。2004年、白河ロータリークラブがロータリー100周年を記念し建立した

 白河関の森公園を後にし、白河の市街地を目指す。県道伊王野白河線を北上するのだが、旗宿の集落を過ぎると人影まばらで、なんとなく心細くなる。

 前回記した通り、松尾芭蕉と河合曽良は1689(元禄2)年4月21日(陽暦6月8日)、籏宿(はたじゅく)(現白河市旗宿)をたつと、関山経由で白河城下へ向かった。この足取りは、曽良の「日記」にあるが「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)には記されていない。今回も空白の道程をたどる。

 風に込めた思い

 古関跡から北へ約1キロ、県道沿い左手(西側)に「庄司戻しの桜」が現れた。「日記」4月20日の記述の最後に「籏ノ宿ノハヅレニ庄司モドシト云テ、畑ノ中桜木有。判官ヲ送リテ、是ヨリモドリシ酒盛ノ跡也」とある。今ある2本の桜は、当時の子孫だろうか、大きく枝を広げ、明治時代建立の「霊桜之碑」と並んでいた。(「道標」参照)

 この先しばらく山道になる。

 芭蕉たちが登った関山は、標高約620メートルの低山だが、山頂からの眺めは良好らしい。素通りの予定だったが、麓にあるという芭蕉の句碑を訪ねることにした。

 しかし、である。ひたすら周辺を右往左往するばかり。県道白坂関辺線から少し入った辺りで「関山入口」「おくのほそ道自然歩道」と書かれた道標を見つけるが、句碑はない。人には出会わず、日も傾いてきた。こんな道に迷う心細さを芭蕉たちも味わったのだろうか。

 旗宿の碑に刻まれていた芭蕉の句

 〈西か東か先(まず)早苗にも風の音〉

は白河の関越えを詠んだ。意味は「西風なのか東風なのか、関を越えた私の耳は、早苗を揺るがす風の音をまずとらえる」(佐藤勝明和洋女子大教授訳)。

 「風」は、能因の歌〈都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白川のせき〉の「風」。関越えの旅情を風で表現した能因にならい、芭蕉は目の前の早苗に吹きつける風を描写することで、未知の地へ足を踏み入れた感慨を詠んだ―と解釈される。

 ただ「西か東か」は、風の向きだけではないような気がする。方角も分からず、本当の古関の跡も判然とせぬまま道を求め歩く、そんな二人の姿を思い起こさせるからだ。そう話すと佐藤教授は「そんな気分も込められていると思います」と応えた。

 日焼け顔を連想

 関山周辺での句碑探しを諦め白河市街地へ入る。旭町の県道白河石川線のY字路は「日記」にも記された「宗祇(そうぎ)戻し」と呼ばれる場所だ。同地には、旗宿の「庄司戻し」に似た、連歌師宗祇にまつわる伝承があり、碑が立つ。
 そして隣には芭蕉の句碑。1843(天保14)年、芭蕉の百五十回忌に白河の俳人が建立したという。刻まれている句は

 〈早苗にも我色黒き日数哉(ひかずかな)〉 芭蕉(「曽良日記」俳諧書留)

 「能因があの歌を詠んだ秋にはまだ早く、今は早苗を取る季節なのに、江戸からの旅の日数も重なって自分の顔はもう黒く日に焼けている」の意(今栄蔵「芭蕉句集」)。

 芭蕉が白河の関を越えた折の句で、「西か東か―」の句の初案として「日記」俳諧書留に記されている。つまり没句だが、風とは対照的な生身の芭蕉が描写され、これはこれで味わい深い。長い道のりを来た旅人の息遣いが聞こえるようだ。

 市街地の西、JR新白河駅の正面口前には、芭蕉像が立っていた。見ると「早苗にも―」の句と同じ味わいがある。2004(平成16)年11月建立で比較的新しい。そのためか、現代的なたくましい青年の容貌で、胸元でこぶしを握る姿がファイティングポーズに見える。

 台座には「ほそ道」の一節「心もとなき日数重るまゝに白河の関にかゝりて旅心定りぬ」が刻まれ、陸奥(みちのく)を進む決意を表現したと分かる。日焼けを思わせるような黒光りした顔が、またいいのだ。

旗宿~白河城下

 【 道標 】進入妨げる不思議な力

 庄司戻しの桜と宗祇戻し

 白河市旗宿の「庄司戻しの桜」と、同市旭町の「宗祇(そうぎ)戻し」には、それぞれ、その名の由来となる物語が伝えられている。二つの物語は、登場人物は違うものの、その場を通り過ぎようとした人物が、ある理由から元来た道を戻ることになる―という構造は同じだ。
 庄司戻しの桜の場合は1180(治承4)年、源頼朝の挙兵を知って弟・義経が奥州平泉から鎌倉へと向かう途中、旗宿にさしかかった際の物語。
 信夫(現福島市)を治める庄司佐藤基治は、息子の継信、忠信とともに義経に付き従ってきたが、基治だけは治める土地へ引き返さねばならない。息子たちと決別するに当たり基治は「おまえたちが忠義の士ならば、この桜のつえが息づくだろう」と言い、持参のつえを地面に突き立てた。その後、兄弟が奮戦の末、戦死すると、つえは根を張り、大きな桜の木になった。
 宗祇戻しの縁起物語は、1481(文明13)年、白河城主結城政朝が鹿嶋神社で1日1万句の連歌興行を催した際のこと。
 都の連歌師宗祇がはるばる白河を訪れるが、街はずれの三十三間堂の前を通ると、行き会った女性から興行の終了を告げられた。
 この時、宗祇は女性の背負っていた綿を見て「売るか」と聞くと、相手は「阿武隈の川瀬に住める鮎(あゆ)にこそうるかといへるわたはありけれ」と和歌で即答した。これを聞き宗祇はみちのくの風流に感じ入り、ここから都へ引き返していった。
 いずれの場所も、町の外れにあり、外部の者が町へ入ろうとするのを妨げる不思議な力を示唆しているようだ。(編集局)