【白河~須賀川】<風流の初やおくの田植うた> 大事な友に伝えた感動

 
鏡沼跡(かげ沼)の西側に広がる田園風景。ヒメジオンが1本だけ風に揺れていた=鏡石町

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅は、白河を過ぎ新章に入る。舞台は須賀川である。

 河合曽良の「日記」では1689(元禄2)年4月21日(陽暦6月8日)、旗宿(現白河市旗宿)をたち白河城下を過ぎた松尾芭蕉と曽良は、午後3時半すぎから4時半ごろ矢吹宿(現矢吹町)に着き宿泊した。経路と宿の記述はないが、奥州街道をたどったようだ。天気は昼すぎから快晴だった。そして翌22日、須賀川(現須賀川市)に着く。

 一方「ほそ道」では、白河を出て須賀川に至る間の場面転換に、芭蕉の旅情がにじむ。

 「...あぶくま川を渡る。左に会津根高く、右に岩城・相馬・三春の庄」

 そびえ立つ磐梯山が眼前に迫ってくるような描写だが、福島県民ならご存じの通り、快晴でもそんなことはない。現実には北へ進みつつ遠くにかすむ山並みを左右に見渡したのだろう。

 ただ、阿武隈川、磐梯山を指す会津根(あいづね)はともに歌枕。岩城(磐城)、相馬、三春も謡曲などで知られた土地だ。

 目の前に広がる光景は、伝説の山や里がそこかしこに点在する、みちのくロマンのパノラマなのだよ! 諸君―という感じか。奥州路のスタートを実況解説する俳聖の高揚感が見て取れるだろう。

 鏡沼伝説の舞台

 「ほそ道」は、この先「かげ沼と云(いう)所を行(いく)に、今日は空曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず」と続く。かげ沼は逃げ水、蜃気楼(しんきろう)のこと。晴れた日、地表付近の空気が熱せられ、沼の水に見えたりする現象だ。この現象が名物だった場所だろう。曇りなので日付は4月22日、矢吹と須賀川の間の場所と分かる。

 実は記者、かげ沼に偶然たどり着いてしまった。須賀川郊外の風景を撮影しようと東北道西側の田園地帯をうろついていると「鏡沼跡(かげ沼)」の標識。見ると田んぼの真ん中に小さな公園があった。案内板によると、ここは鏡石町内。「鏡沼伝説」の舞台で今も小さな池がある。その片隅に「ほそ道」にちなみ芭蕉と曽良の石像もあった。像の表情は優しく、木陰で旅の疲れを癒やしているように見えた。

 関越え記念の句

 さて、いよいよ須賀川宿である。芭蕉たちはこの奥州街道の宿場で4月22~28日(陽暦6月9~15日)7泊した。県内では最も長く滞在した場所で、旧友との再会が目的だった。

 旧友とは相楽等躬(さがらとうきゅう)(1638~1715年)という人物。当時52歳。裕福な商人で、奥州俳壇の実力者といわれる。等躬は俳号で、乍〓(〓はニンベンに憚のみぎがわの文字)(さたん)、乍〓(〓はニンベンに憚のみぎがわの文字)斎、藤躬とも号した。通称伊左衛門。彼についてはさらに記すが、まず芭蕉のこの句を記さねばならない。

 〈風流の初(はじめ)やおくの田植うた〉

 「白河の関を越えて奥州路に入ると、折しも田植え時、人々の歌う田植え歌はひなびた情緒が深く、これこそみちのくで味わう風流の第一歩です」の意(今栄蔵「芭蕉句集」)。

 等躬に「どんな関越えの句を作りましたか」と問われ「疲れや、風景に魅了されたりなどで十分考えられなかった。しかし一句も作らぬのはやはり残念で」と芭蕉が記した句である。

 「田植え」は芭蕉が関越えの前後に好んだ題材。その題材を練り上げたのだろう、「風流の―」は、まさに関越えを記念し締めくくる一句だ。同時に、久々に会う旧友のため詠んだ、あいさつ句(俳諧で最初に詠む発句)でもあった。付け加えると、当時の須賀川は田植え真っ盛り(「日記」にある)。芭蕉は、実際に聞いた田植え歌の臨場感を盛り込んだのかもしれない。

【白河~須賀川】<風流の初やおくの田植うた>

 【 道標 】俳壇の先輩であり旧友

 「おくのほそ道」の旅以前、松尾芭蕉と相楽(さがら)等躬(とうきゅう)は、どんな関係にあったのか考えてみました。
 二人の直接の関係を示す第一の資料が、等躬の師匠岸本調和がまとめ延宝7(1679)年発刊した俳諧選集「富士石」です。
 発刊前年の1678年、もしくは77年春、芭蕉は俳諧宗匠として立机(りっき)(一人立ち)し、立机披露の万句興行を江戸で開いている(江東区芭蕉記念館作成「芭蕉年譜」)のですが、「富士石」には、等躬が万句興行を祝い贈った次の前書きと句が載っています。
  桃青万句に
 三吉野や 世上に花を 目八分
 この前書きには、後進の社会的成長を祝福するような語気が感じられます。
 この頃、等躬は、岸本調和門下では相当な地位と力量を備えていたと考えられ(調和編俳諧句集「金剛砂(こんごうしゃ)」)、年齢は等躬が芭蕉の7歳年長でした。つまり等躬は、芭蕉にとって宗匠になる前から交流のある俳壇の「先輩」的な人物だったことが分かります。
 第二の資料は、等躬編の俳諧選集「葱摺」に収められた、芭蕉が白河の関越えについて記した次の詞書(ことばが)きです(他にも所収あり)。
 「みちのくの名所■(く)、心に思ひをこめて、先(まず)関屋(せきおく)の跡なつかしきままに、ふる道にかかりて今の白河も越えぬ。頓(やが)て岩瀬の郡(こほり)に至りて、乍単斎等躬子の芳扉(ほうひ)を扣(たたく)。彼(かの)陽関を出(いで)て故人に逢(あふ)なるべし」
 「彼陽関を出て故人に逢ふ」は、唐の詩人王維の有名な七言絶句「送元二使安西」の結句「西出陽関無故人」を下敷きした表現。「故人」は「旧友」の意味で「白河の関を過ぎ旧友(等躬)に会った」と書いているのです。つまり二人の間には「ほそ道」の旅以前にかなりの交流があったことが分かります。(須賀川市立博物館協議会長・西間木俊夫さん)