【須賀川市街地】<一葉にして月に益なき川柳>俳諧の心...受け継ぐ街角

 
軒の栗庭園に立つ相楽等躬の石像。庭園内には芭蕉と曽良の石像も立つ=須賀川市大町

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)をたどる旅は、再び須賀川市である。1689(元禄2)年4月22日(陽暦6月9日)、松尾芭蕉と河合曽良が、奥州街道・須賀川宿の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)宅に着いた場面からスタートする。

 芭蕉は、旧友の等躬に「どんな関越えの句を作ったのか」と聞かれ、疲れや、風景に魅了されたりで、なかなか...と言い訳しながらも〈風流の初(はじめ)やおくの田植うた〉と詠んだ。ここまでが前々回。

 楽しさは3倍に

 この先「ほそ道」原文は「脇・第三とつゞけて、三巻となしぬ」と続く。つまり芭蕉が詠んだ〈風流の―〉を発句(俳諧の一番最初の句)に、等躬と曽良が2句目、3句目と続け、3人は興が乗るままに3巻(1巻36句)の連句を完成した―と記している。再会して早速、大いに盛り上がったというわけだ。

 ただ、実際に仕上げたのは1巻のみ。3巻と記したのは「興の尽きぬことを示すための虚構」(今栄蔵「芭蕉文集」)といわれる。「旧友との再会で日頃より3倍楽しかった」と芭蕉は言いたかったのだろう。

 フィクションが多く、どこが真実なのか分からん―と思う人のため書き添えると、3人が等躬宅で「風流の―」を発句に俳諧を楽しんだのは事実だ。証拠が須賀川市立博物館にあった。

 「芭蕉・曽良・等躬三子三筆詩箋(せん)」と呼ばれるこの資料は当時、芭蕉と曽良が等躬の求めに応じそれぞれ筆をとった書状と、等躬自身が返詠した書状の計3枚を巻物にしたもの。芭蕉らの直筆である。

 その1枚目、芭蕉の書には〈風流の―〉で始まる次の6句が前書きとともに記されている。

 風流の初やおくの田植うた はせを
 いちこを折てわかまうけ草(ぐさ) 等躬
 水せきては昼寝の石やなをすらん ソ良
 籮(びく)に鮇(かじか)の聲(こえ)いかす也 はせを
 一葉(ひとは)にして月に益(やく)なき川柳(かわやなぎ) 躬
 雇(ゆい)に屋ねふく村そ秋なる 良

 句は、曽良の「日記」に記された、等躬宅での連句と一致し3人が「ほそ道」に記された通り俳諧を楽しんだことを裏付けている。同市はこの資料を昨年購入し市の文化財に指定した。

 さて、理屈っぽい話が続いたので、気分転換に須賀川の市街地をぶらつく。

 等躬の屋敷があったのは現在の同市本町。市芭蕉記念館が1階にあるNTT支店ビル周辺の1ブロックと、奥州街道(現県道須賀川二本松線)を挟み反対側の一角が、屋敷跡といわれ、相楽家の富豪ぶりが分かる。

 屋敷跡周辺と、きれいに整備され「等躬通り」と名付けられた奥州街道沿いを歩いていると...あるある。芭蕉と曽良の石像や史跡案内板。大町の「軒の栗庭園」には、柔和な表情の等躬の石像がぽつんと正座している。街の一角がおくのほそ道のテーマパークのようだ。

 個性を競い合う

 だが、なにより目立つのが街角の「軒あんどん」である。

 各商店に設置された郵便受けほどの大きさの和風サインで、芭蕉や曽良、等躬、さらに地元の俳人たちの句が書かれた多彩なデザインが続々と現れる。「俳諧の街だなあ」と思っていると、東洲斎写楽の絵が描かれたあんどんまである。

 大町で酒とギャラリーの店を開く岡村丈吉さん(69)によると、2000(平成12)年ごろ始まったのが「おくのほそ道」などをテーマにした、本町など6町内会でつくる須賀川南部地区町内会協議会のまちづくり活動。軒あんどんも、その一環で10年ほど前に設置された。

 「ただ、俳句だけでも面白くないと、大町は『地元の画家亜欧堂田善が写楽だった』という説をアピールするデザイン、三丁目はきうり天王祭のキュウリ、四丁目は名物鍾馗様の絵をあんどんに描いた」と岡村さん。なるほど、あんどんを連ね、個性を競い楽しんでいるのか―と思い、ふと気付いた。これは、まるで連句ではないか。さすが俳諧の街である。

須賀川市街地

 【 道標 】機知や即興性楽しむ

 ■俳諧のスタイル
 俳諧の句会は、現在の句会と異なるものだった。俳諧は、句を連ねて詠む連句のことをいい、通常複数の人が参加し共同で一連の作品を作り上げていく。
 手順は、第一句(発句)を五七五の17文字で詠み、次の人が七七14文字の第二句(脇の句)を付ける。さらに次の人が第三の句五七五を詠み、また七七を付ける。これを繰り返す。詠み手は、前の句に詠まれた心情をくみ取り句を付け、その機知、即興性を楽しむ。発句を詠むのは宗匠(先生)役の人が多い。
 この連句を100句連ねる形式を百韻、36句で締めくくる形式を歌仙という。また3人で開く連句を三吟といい、芭蕉と曽良、等躬の3人が歌仙形式で作った連句、または句会のスタイルは三吟歌仙と呼ばれる。
 
 ■三子三筆詩箋
 「芭蕉・曽良・等躬三子三筆詩箋」のうち芭蕉の書面には「乍単(さたん)斎等躬子の芳扉(ほうひ)を扣彼陽関(たたくかのようかん)を出て故人に逢(あふ)なるへし」など、等躬の俳諧撰集「葱摺(しのぶずり)」や「日記」にも記され前書き(同連載第13回「道標」参照)に続き6句が続く。
 曽良の書面は「等躬と主の芭蕉と一巻、歌仙を巻くこととなり、私もその末席に交わりました。この日は田植えの日であり、珍しい祝いごとがあって、もてなしていただいたので」(訳・須賀川市立博物館)の前書きに続き
〈旅衣早苗に乞食乞(つつむめしこわ)む〉(田植えの祝いのごちそうによばれたが、私どもは乞食(こじき)行脚にふさわしい、早苗に包んだ飯でももらおう)の句が添えられている。
 等躬の書面は、芭蕉、曽良と昔話が弾んだこと、浅香山、あさか沼はどれほど離れているのかと聞かれ、沼は今や田の溝、花かつみが何かを知る人もいないと答えたことを記している。(編集局)