【須賀川・芹沢の滝】<隠家やめにたゝぬ花を軒の栗/稀に蛍のとまる露草>

 
現在の芹沢の滝跡へ続く小道をたどる高久田さん(奥)と根元さん

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の1週間に及ぶ須賀川滞在記の後半である。

 1689(元禄2)年4月下旬(陽暦6月中旬)、松尾芭蕉と河合曽良は、須賀川宿の相楽(さがら)等躬(とうきゅう)宅で滞在を続けた。曽良の「日記」から、滞在4日目の4月25日(陽暦6月12日)以降を見ると


 ▼25日=主(あるじ)物(もの)忌(いみ)、別火(けがれを避けるため炊事の火を客たちと別にすること)▼26日=小雨ス▼27日=曇(くもり)。三つ物(発句、脇句、第三の句)ども。芹沢ノ滝へ行(いく)▼28日=発足ノ筈(はず)定ル。矢内彦三良来而(きたりて)延引ス。昼過ヨリ彼宅ヘ行而及暮(くれにおよぶ)。十念寺・諏訪明神ヘ参詣。朝之内、曇。

 物忌、小雨―と、ひっそりした記述が並ぶ。26日には芭蕉は江戸の門人杉山杉風(さんぷう)に手紙を出し「多分明日27日には出発できそう」(意訳)と書いている。

 延びた滞在期間

 しかし出発は2日延びた。雨もあるだろう。この先、阿武隈川を越えねばならず、天気は大問題だった。だが、どうも人々に引き留められたらしい。28日は矢内彦三良(郎)という人物に引き留められたとはっきりある。27日は、句を作り、芹沢の滝へ行ったとだけ書かれているが、これも地元の俳人たちと連れだっての行楽だったようだ。

 須賀川市立博物館協議会の西間木俊夫会長によると元禄期、等躬と同じ「等」の文字を俳号に持つ俳人は、須賀川だけで8人おり、等躬とともに芭蕉らを大歓迎した。ただ、芭蕉も再三の引き留めには少し困ったのでは、と思うのだが「おかげで、十念寺や諏訪明神など芭蕉ゆかりの地が増えたのです」と同市芭蕉記念館の高橋亜純さんはニッコリほほ笑むのだった。

 さて、現在の須賀川で、かつて芭蕉が訪れたという芹沢の滝に思い入れを持つ人々と出会った。可伸庵跡も案内していただいた高久田稔さん(80)と根元信二さん(77)である。

 芹沢の滝は芭蕉の時代、現市街地から約1.6キロ西南西、同市五月雨(さみだれ)にあり、当時は落差が8メートルほど、水量も豊富だったという(芹沢の滝跡の標柱より)。ただ現在、滝はなく、地図には「芹沢の滝跡」と記されているだけだ。しかし高久田さんたちは「この滝跡も本物ではない」と言う。そこで本物の滝跡へと案内してもらった。

 根元さんが「ウルトラマン通り」と呼ぶ幅の広い県道中野須賀川線。その上り坂のピーク辺りは、東側が、ついたてのように低い崖になっていた。二人によると、この崖をかつて水が落ち滝になっていた。

 県道整備で移設

 高久田さんは昭和30年代前半この辺りを歩き、滝や芭蕉の句碑を見た記憶があると言う。根元さんには中学時代、同級生らと散策した思い出の地。大学時代には随筆に、大きなつららが下がった冬の情景を書いている。「この辺は昔、釈迦堂川が流れていたが、河川改修で流れが変わり情景も変わった。さらに県道の整備で、滝跡自体が移設された」と二人は説明する。

 現在の滝跡は、昔の滝跡から約50メートル西にあった。「芹沢の滝跡300メートル」の標識近くの案内板に、県道整備で1992(平成4)年移ったとある。近所の男性に「気を付けて」と見送られ夏草の中を進み、やぶを越えると、小さなスペースに石碑が二つ。ただ水はかれていた。

 高久田さんたちは「時代の変化は急激だ。路地裏の風景が須賀川には残っていると、訪れた芭蕉ファンは言うが、その風景もどんどん消えていく。だからこそ『ほそ道』は宝。『ほそ道』を手掛かりに、かつての風景を探してほしい」と言い「究極の目標は『おくのほそ道』ゆかりの地の世界遺産認定」なのだと力を込めた。

須賀川・芹沢の滝

 【 道標 】受け継がれる素朴な心

 相楽(さがら)等躬(とうきゅう)が、須賀川俳諧の祖という評価は、多くの人の一致するところです。同時に可伸、等雲など印象的な人々が「おくのほそ道」などには登場します。この「人」こそが、「ほそ道」で描かれた須賀川の特色ではないでしょうか。
 芭蕉たちが1週間も滞在したのは、梅雨時だったこともあるでしょうが、心を和ませる素朴なおもてなし、人情が、水準の高い俳諧文化とともにこの街にあったことが大きな理由だと思います。
 そもそも、人と人が言葉を連ねる俳諧は、参加する人の人となりが表れるものです。
 「花を持たせる」と言いますが、これは俳諧由来といわれます。「花」や「月」を詠む句は、決まった場所で出すのがルールで、その名誉な句を詠む順番を人に譲るのが「花を持たせる」。そんな細やかな心遣い、やりとりが、楽しかったのでしょう。
 そして、等躬という俳号は、等が「等しい」、躬が「体」。俳諧を通し身分に関係になく語り合うという意味が込められていたといわれます。当時、須賀川周辺には「等」を号に付けた人たちが多くいました。
 可伸の句にも人柄を感じます。
 芭蕉の発句〈隠家(かくれが)やめにたゝぬ花を軒の栗〉(「ほそ道」掲載句の原形)に続け、可伸は〈稀(まれ)に蛍(ほたる)のとまる露草〉と句を付けました。自身を小さな露草に例え、華やかなホタル(芭蕉)がとまるなんてもったいない―というわけです。相手の気持ちをくすぐってしまう魅力があります。
 彼ら以外にも「天気が悪いのでもう少し居てください」と芭蕉たちを引き留める人々も出てきました。
 そんな、まさに芭蕉が求めた素朴なもてなしが、今も受け継がれる須賀川の魅力だと思います。(須賀川市芭蕉記念館・高橋亜純さん)