【郡山・田村町・中町】<安積山かたびらほして通りけり>芭蕉の句あった

 
急な石段を登りどりついた田村神社の本殿(奥)。手前は、門のような造りをした神楽殿とつるされた大太鼓

 須賀川をたった松尾芭蕉一行は、元禄2(1689)年4月29日(陽暦6月16日)から翌5月1日(同年は4月30日はなかった)、現在の郡山市内を旅した。

 ただ「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)で現郡山市内の記述は、檜皮(ひわだ)宿(同市日和田町)周辺のみ。河合曽良の「日記」が見つかる1943(昭和18)年まで「ほそ道ワールド」では須賀川と日和田との間は空白地帯だった。「まわり道」の旅は、この「余白」を進む。

 遠回りして参詣

 「日記」によると4月29日、芭蕉と曽良は馬に乗り、乙字ケ滝近くで阿武隈川を渡り右岸を北上。小作田(須賀川市小作田)経由で守山(郡山市田村町山中・守山)に着く。守山では「大元明王」(泰平寺、現田村神社)を参詣し、収蔵品の絵画を鑑賞した。昼食後、再び馬で出発。金屋村(郡山市田村町金屋)で阿武隈川を舟で渡り、日出山宿(同市安積町日出山)で奥州街道に入ると、日没前に郡山宿(同市中町周辺)に着いた。

 須賀川宿―郡山宿間は、奥州街道を北上すれば十数キロ。比較的平らな道だが、芭蕉たちはわざわざ山道を迂回(うかい)したのだ。目的は大元明王をまつる守山の寺、泰平寺の宝物だったようだ。須賀川俳壇の面々が拝観を勧めたことが、彼らの書いた寺などへの紹介状を芭蕉が持参したという「日記」の記述から分かる。

 当の宝物は、室町時代末期の水墨画家雪村の作といわれる歌仙絵(歌人の和歌と肖像を描いた絵)数点など。歌仙絵には俳諧の祖の一人で同時代の連歌師山崎宗鑑の画讃(絵画の余白に書き込んだ詩文)が入っていたという。そんな文芸趣味が俳聖の興味をひき、守山へのまわり道に導いたと想像できる。

 ただ、芭蕉が「ほそ道」に何も記さなかった理由は分からない。当時広大な神域を有した大元明王のみやびやかなさまが「ほそ道」のテーマに合わなかった―との見方もあるが、これも推測。現在の田村神社の風情は、芭蕉好みの気もするが。
 さて、郡山宿に着いた芭蕉たちは同地で1泊した。その感想が曽良の「日記」に一言だけある。「宿ムサカリシ」、つまり「宿が汚い」。結構きつい言われ方である。ちなみに福島で泊まった感想は「宿キレイ也」。

 そのせいか、郡山宿があった郡山市中町周辺に芭蕉の句碑はない。悪口は残しても、句は一つも残してないではないか―。そんな声が聞こえてきそうだ。

 先祖残した記録

 では、先を急ぐか、と思っていると「待った」をかけるように、郡山宿住民の子孫から便りが届いた。句があったのである。郡山を詠んだ芭蕉の句が。さらに芭蕉の句碑も過去にはあった。

〈安積山かたびらほして通りけり〉

 厳密には、現郡山市域の歌枕「安積山(浅香山)」を詠み込んだ句だ。かたびら(帷子)は麻などのひとえ着、つまり夏の着衣で、晩夏の季語。同市内の地名「片平」に掛けてある。「(雨あるいは汗で)ぬれた帷子を乾かして安積山の辺り(片平)を通り過ぎたのだなあ」といった意味か。芭蕉が郡山に来た季節、梅雨の晴れ間という状況とも合っている。

 この句の存在を知らせてくれたのが、安積国造神社の宮司安藤智重さん(52)。同神社は、郡山宿ができる前からまつられており、古文書も多く所蔵する。句も、第55代宮司親重が残した文書「安藤親重覚書」(天保2=1831年)に記されていた。

 「覚書」は、宝暦の初め(1750年代)磐城平から俳諧の師匠を迎え誕生した「郡山俳壇」について記した文書で、「郡山市史」にも一部が収録されるなど割と知られた史料だ。

 その後半に「芭蕉翁の碑を善導寺境内(当時は郡山市中町、みずほ銀行郡山支店付近)に建てたが、寺が類焼(文化4=1807=年の郡山宿大火)した後、行方不明。芭蕉百回忌の追善で建てたかと思う」(意訳)とあり、続いて碑に刻まれていたらしい先の芭蕉の句と、室町時代の連歌師猪苗代兼載の歌など郡山ゆかりの作品が記されている。

 しかし、この〈安積山―〉の句は、全国はおろか地元郡山でも知られていない。近年の芭蕉句集には見当たらず、安藤宮司さえ、この夏「覚書」を読み直していて気付いたという。

 知られていない理由の一つは句が記された覚書の後半が「郡山市史」には掲載されていないことだろう。宮司は「『芭蕉の句があるはずがない』と省かれたのでは」と残念そうに言う。

 だが、この句は「親重覚書」にだけ記された作品ではなかった。これを先日、安藤宮司が探り当てた。執念である。
 1827(文政10)年、江戸で出版された俳人毛呂(もろ)(小沢)何丸(なにまる)編の全句集「芭蕉翁句解参考」に〈浅香山帷子ほして通り介李〉(介・李は変体仮名)の句が、「此句細道にはもれたり」の注釈付きで掲載されていた。さらに1988(昭和63)年刊行「校本芭蕉全集」発句篇・下(富士見書房)には「存疑の部」つまり真偽不明の扱いながら〈浅香山帷子ほして通りけり〉が掲載されていた。

 安藤宮司は「地方と中央の二つの資料が同じ句を伝えている。これは芭蕉の作であることの裏付けでは。郡山宿で1泊した時、芭蕉を慕って集まった人々に贈ったものでしょう」と力を込める。郡山の「空白」がいよいよ埋まるか。

郡山・田村町・中町

 【 道標 】晩年の軽みの境地示す

 「安藤親重覚書」には、芭蕉作として記された句〈安積山かたびらほして通りけり〉とともに、室町時代後期の連歌師で会津・猪苗代氏の一門、猪苗代兼載(けんさい)の歌〈安積山片平越に袖ぬれて初時鳥おとづれぞする〉も少し誤って記されています。(定本では〈安積山片平越えて来てみれば初ほととぎす音信(おとずれ)ぞする〉)
 また、夏に、かたびら(帷子)=衣を干すイメージは、「万葉集」にある有名な持統天皇の御製〈春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天の香久山〉と重なります。これは芭蕉作の句が、この先人らの作品を踏まえていたことを示しています。
 さらに芭蕉が、かたびらを詠んだ句として〈紫陽草(あじさゐ)や帷子時(かたびらどき)の薄浅黄〉(「陸奥鵆(ちどり)」・年次不詳)があります。帷子時は、裏地がない一重の着物・帷子を着る時節、つまり夏のこと。薄浅黄は、浅葱(あさぎ)色を薄くしたような淡い青緑色です。ちなみに神職の多くは、この浅黄のはかまをはいています。
 こうした要素を重ね合わせると、芭蕉作〈安積山―〉の句からは、次のイメージが浮かんできます。芭蕉が安積郡を通った時、山々は帷子の色に見えた。その光景から芭蕉は、兼載や持統天皇の歌に思いをはせ「薄浅黄の帷子を干しながら安積山に近い片平を通った」と詠んだのだ、と。
 「芭蕉作」に「疑いあり」との見方は覆されました。「覚書」に記されていたことで、郡山の人々に長く親しまれていたことが分かります。「芭蕉翁句解参考」にある「此句細道にはもれたり」の説明は、この句が「ほそ道」の旅で詠まれたと伝わっていたことを示唆しています。句自体も、芭蕉晩年の軽みの境地を示すものです。ただ、軽みは「ほそ道」のテーマに合わなかったのではないでしょうか。(安積国造神社宮司・安藤智重さん)