【福島城下】<早乙女に仕形望まんしのぶ摺>県都・福島に残した謎と足跡

 
JR福島駅東口前の交差点手前に立つ芭蕉と曽良の像。行き交う人波をそっと見守っているようだ

 「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)をたどる旅は、いよいよ福島城下である。

 夜明けとともに郡山宿をたち、あまり寄り道もせず奥州街道を北上してきたこの日、1689(元禄2)年5月1日(陽暦6月17日)、松尾芭蕉たちがゴールの福島城下まで歩いた距離は12里余(約50キロ)。いやぁ長かった。気付けば夕暮れも近い―。そんな芭蕉のつぶやきが聞こえてきそうだ。

 先を急いだ理由

 一方、現実の世界では「芭蕉はなぜ、そんなに急いでいたんでしょう」と、前回の小欄を読んだ人から質問をいただいた。

 当時の旅人が1日に歩いた距離は、一般的に9里(約36キロ)。ならば、福島城下の十数キロ手前にある八丁目宿(現福島市松川町)で泊まるのが自然だ。何か、その日のうちに福島にたどり着かねばならない理由があったのか―と言う。

 実は、河合曽良の「日記」を読むと、福島にたどり着きたかった理由らしきものが、うっすら見えてくる。

 5月1日の後半の記述―芭蕉たちは、安達ケ原で鬼の岩屋などを見た後、再び供中(くちゅう)の渡(わたし)で阿武隈川を越え、川に沿い北上。福岡村(現二本松市油井福岡)を通り奥州街道に戻ると八丁目宿、さらに福島城下を目指した。

 問題は、この次の一文である。「福嶋町カラ五六丁前、郷ノ目村ニテ神尾氏ヲ尋」

 芭蕉たちは、福島城下に入る手前で、郷ノ目村(現福島市郷野目)に住む「神尾」という人物を訪ねたとある。「ほそ道」には出てこない挿話だ。

 しかし、神尾氏は江戸へ出掛けていて留守。そのため、芭蕉たちは神尾氏の妻と母に会うと、すぐに福島城下へ向かい宿に入った―と「日記」は続く。

 突然出てくる「神尾氏」とは一体何者で、芭蕉たちは何のために立ち寄ったのか。素朴な疑問が湧くが、日記には何も書かれていない。

 ただ、時刻が日暮れの少し前で、主人が不在と知るや芭蕉たちは、そそくさと福島の町で宿に入った―との記述から、一夜の宿を求め知人宅を訪れた、との推測が浮かぶ。宿賃も浮くだろう。少し遠くとも福島を目指し急いだのは、泊めてくれそうな知人がいたから、ではないか。

 では「神尾氏」とは誰か。

 「この謎は、福島市の研究者や歴史好きの間で長年議論されてきた」と、福島市史編さん委員の太田隆夫さん(82)は話す。

 「福島の神尾」で研究者らが最初にピンと来たのは、当時の福島藩の重臣「神尾図書(ずしょ)」という人物だった。しかし、偉い武士が城下町の外側の村に住んだ可能性は薄いため別人―との見方が有力だ。「結局、正体は不明」と太田さんは言う。ただ、さまざまに推理を語る太田さんは、何とも楽しそうである(「道標」参照)。

 上客が泊まる宿 

 さて、城下町の南の出入り口「江戸口」の木戸(柳町)をくぐり、城下に入っただろう芭蕉たち。この日の曽良の「日記」は「宿キレイ也」と結ばれる。この、清潔な宿とはどこか。福島市の歴史好きたちは、神尾氏と同様、これも調べていた。

 芭蕉たちの宿は、現在の北町にあったといわれる。同地のお茶屋、松北茶園の元社長で株式会社「福島まちづくりセンター」常務の草野健さん(71)は「うちの店が面している交差点の、東西の通り(テルサ通り)が奥州街道、南北の通りは今『翁(おきな)橋通り』と呼ばれている。この『翁』が芭蕉を指しているらしい」と言う。

 「福島市史」では、宿は不明と前置きしつつ、北町の古老たちは北南町(現北町)表通り(現翁橋通り)の用水路にかけた石橋を翁橋と称し、それが芭蕉翁にちなんだ命名と伝えてきた―と記している。

 太田さんは「福島城下は荒町にも宿があったが、庶民の宿。一方、北南町の宿には武士など上客が泊まった。ここなら『宿キレイ』なのもうなずける」と解説しつつ「土地の人々は、芭蕉のことは詳しく知らなかったろうが、全国を歩いた有名人が来た、わが町にはくが付いた―と言い伝えたのだろう」と話す。

 最後に太田さんには「芭蕉が福島城下でまいた(俳諧文化の)種が芽生えた証し」として1基の句碑も教えてもらった。

 県庁の北、福島一小東隣の小公園に、幕末の豪商、斎藤利助(俳号・忍山)が建て、文字は公家、東久世通禧(みちよし)という、三角形の立派な句碑があった。東久世通禧は八月十八日の政変(1863年)で京都から長州へ逃れた7人の尊皇攘夷(じょうい)派公卿の1人、「七卿落ち」の当事者だ。

 句は〈早乙女に志かた望まむ信夫摺〉(「俳諧書留」では「早乙女に仕形望まんしのぶ摺」)。早苗取りをする娘たちに、しのぶ摺り(昔の草木染め)のしぐさを所望したいものだ―の意。

 はて、似たような句を知っているが...。

【福島城下】<早乙女に仕形望まんしのぶ摺>

 【 道標 】「神尾氏」は一体何者か

 河合曽良の「日記」に記された「郷ノ目村の神尾氏」とは一体何者なのか。これは、福島市で郷土史に関心を持つ人たちの間で、あれこれ探索されてきた謎でした。
 松尾芭蕉が訪れた頃の福島は、堀田正仲10万石の城下町でした。この堀田氏の重臣に、神尾図書之政という人物がいて、堀田氏の治政に功績があったことが知られています。この史実から、芭蕉が訪ねた神尾氏は、神尾図書と同一人物ではないかとの見方があります。
 しかし、神尾図書は福島藩士なので、城から離れた村には住んでいなかっただろうとの見方が有力です。
 当時の福島城下には武家屋敷が不足し、藩も財政難で屋敷を造成する余裕がなく、家臣の多くは町家や農家に間借りしていた―ともいわれますが、重臣の図書はさすがに城の近くに住んでいたと考えられます。さらに年齢の問題があります。
 神尾図書は1695(元禄8)年に66歳で死去し、信夫郡仁井田村(現福島市仁井田)の宝勝寺に葬られ、墓碑もあります。
 一方、芭蕉が訪れた時、対応したのは神尾氏の妻と母でした。当時60歳の図書の母が存命だったとは考えにくいのです。
 神尾氏との関係で注目されるのが郷野目村の豪農尾形氏です。1838(天保9)年、郷野目村の尾形惣左衛門の記録に「神尾五左衛門に、尾形家の家督をゆずり、帰農す」とあります。両家の間には深い関係があったことがうかがわれます。
 いずれにせよ神尾氏は、芭蕉が「ほそ道」の旅へと江戸を出発する時、福島城下に行った場合には、ぜひ会いたいと備忘録に記しておいた人物だと想像されます。図書とは別人でしょうが、何らかの関係があり、当時は郷野目の尾形家に下宿していたのではないでしょうか。(福島市史編さん委員・太田隆夫さん)