【白石~仙台】<あやめ草足に結ん草鞋の緒> 紺の染緒に託した『真心』

 
榴岡天満宮の境内で見つけた願い叶い筒。参拝客が願をかけさげていく=仙台市宮城野区榴ケ岡

 松尾芭蕉と河合曽良は、国見町の県境地帯「伊達の大木戸」をたどり、東北線貝田駅付近を通り過ぎたのだろう。そう想像しながら県境を越え、宮城県白石市に入った。ここからは旧仙台藩領。道は山あいを下り、空が狭く感じる。記者は越河(こすごう)、斎川など宿場だった集落に寄り道しながら、国道4号で北上した。

 雨の中を北上した芭蕉たちは、白石城下で1泊。翌日1689(元禄2)年5月4日(陽暦6月20日)、岩沼経由で仙台を目指した。飯坂―仙台間は90キロ余り。これを2日で歩くのだから、急ぎ足だったろう。

 芭蕉同様、記者も先を急ぐ。

 芭蕉は「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)で、藤原実方の墓があるという「笠島」を遠く眺め〈笠島はいづこさ月(つき)のぬかり道〉、岩沼では能因らが歌を詠んだ歌枕「武隈の松」を訪れ〈桜より松は二木(ふたき)を三月越(みつきごし)〉と詠んだ。急ぎながらも芭蕉はご満悦である。

 次々あて外れる

 さて、岩沼から先、名取川を渡り、芭蕉たちが仙台の城下に着いたのは4日の夕方。ちょうど、家の軒にショウブをふき、邪気を払う端午の節句の日だった。

 芭蕉たちは仙台に8日まで4泊したが、初めは宿探しに歩き回った。曽良の「日記」によると、まず国分町の旅籠(はたご)大崎屋に投宿し、翌5日は、仙台藩の上士の元へ紹介状を芭蕉が持参し宿を求めた。しかし、家臣が旅籠まで断りに来る。次に、当時仙台を中心に活動中の談林派の俳諧師、大淀三千風(みちかぜ)のことを人に尋ねるが消息不明...。どうにも、あてにしていた人々がつかまらない。

 風流極めた餞別

 と、そこへ頼りになる人物が現れた。三千風の高弟で木版彫刻業を営む画工、北野屋加右衛門。芭蕉たちは、彼を訪ね三千風が旅に出て不在と知るが、この出会いが芭蕉たちを、ある意味、救ったのだ。

 結局、二人は大崎屋に泊まり翌6日は、好天の下、大手門内の亀岡八幡宮を参拝。7日は、加右衛門が「和歌に詠まれながら不明になっている名所を調べている」と言い、玉田、横野、榴ケ岡、木下などを訪れ、薬師堂、天神社なども巡った。

 さらに、その夜、芭蕉は、加右衛門にハートをわしづかみにされる。彼が、これから行く松島などの絵地図を描き、(マムシなどを防ぐといわれる)染緒(そめお)を紺にした草鞋(わらじ)2足まで添えて餞別(せんべつ)にくれたのだ。そして一句。

〈あやめ草(ぐさ)足に結(むすば)ん草鞋の緒(お)〉旅人なので、端午の節句のアヤメは草鞋の緒に結ぶことにしよう、の意。紺の染緒をアヤメ草に詠み代えたのだ。

 そして芭蕉は「風流の道の痴(し)れ者は、この心遣いで、その本領を発揮したというべきだ」と、最大の賛辞を贈った。芭蕉が、ここまで人間を描いたのも珍しい気がする。

 榴ケ岡、木下などは現在の仙台市宮城野区、若林区。緑は多いが球場や高層ビルも立つ。薬師堂横の道は、シーズンにはプロ野球、楽天のファンが球場へと列をつくる。芭蕉が参拝した榴岡(つつじがおか)天満宮の境内では「願い叶(かな)い筒」という願かけのお守りが、風に揺れていた。色とりどりの筒のうち、紺色が目に付くのも土地柄だろう。

【白石~仙台】<あやめ草足に結ん草鞋の緒>

 【 道標 】伊達家とともに遷座

 亀岡八幡宮は、伊達家が鶴岡八幡宮の分霊を勧請した神社で、代々館内、城内でまつられてきました。現在の場所には、天和3(1683)年、伊達家20代当主で第4代仙台藩主の綱村公が建立しました。
 仙台は、広瀬川の西側に青葉城、東側に城下町が位置し、亀岡八幡宮がある川内という地域は、川のお城側、城内を意味します。芭蕉と曽良が、仙台での3日目、この神社をお参りした時も、城の大手門をくぐり二の丸、三の丸(現東北大)を通り訪れています。
 当時の社殿などは、戦災などで失われ、今は鳥居と石段だけが往時の面影を伝えています。
 福島県とも縁があります。亀岡八幡宮が最初に建立されたのは、伊達氏発祥の地、高子(伊達市保原町)でした。その後、西山(桑折町)、梁川(同市梁川町)と伊達家が拠点を移すたび、神社も遷座され、江戸時代になって梁川から丸森(宮城県)経由で仙台へと移されました。
 私も、先祖が安積国造神社の神職で、16世紀に伊達家の家臣になったそうです。(亀岡八幡宮宮司・郡山宗克さん)