【 松島 】<島々や千々に砕けて夏の海> 絶景から生まれた『誤解』

 
月光に照らされた松島湾。「ほそ道」からうかがえるように、松島の月は芭蕉の憧れだった

 仙台を出た松尾芭蕉と河合曽良は一路塩釜、松島へ。道中、多賀城の「壺碑(つぼのいしぶみ)」をはじめ歌枕や塩釜神社を巡り、船で松島に渡った。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)冒頭で「松島の月先心にかゝりて」と記していた念願の地だ。曽良の「日記」によると、到着は1689(元禄2)年5月9日(陽暦6月25日)の昼ごろ。快晴だった。

 心ひかれる場所

 260余りの島々からなる松島。日本三景の一つに数えられ、古くから歌枕、瑞巌寺を擁する霊場として知られていた。芭蕉以前には伊勢出身の俳人大淀三千風(みちかぜ)が訪問している。三千風が1682(天和2)年に出版した「松島眺望集」は芭蕉の句を「桃青」の号で収録。眺望集が松島行を促したとの見方もある。

 「ほそ道」に従い、記者は塩釜港(宮城県塩釜市)から遊覧船で松島に向かった。船内ガイドによると、東日本大震災で一部が崩壊、変形した島もあるという。個性的な島々を間近に眺め、50分ほどで松島の船着き場に到着、「ほそ道」に従い「雄島」へ向かう。諸国から訪れた僧侶らが修行した瑞巌寺ゆかりの霊場だ。曽良〈松島や鶴に身をかれほととぎす〉(ホトトギスよ、松島の絶景にふさわしい鶴の身を借り鳴いてくれ、の意)と芭蕉〈朝よさを誰まつしまぞ片心〉の両句碑が、仲むつまじく身を寄せる。〈朝よさを...〉は出立以前に詠んだ無季の句。こんなにも松島に心ひかれるのは誰かが待っているのか。自分の片思いか―。恋慕の情にも似た切なさに、胸が締め付けられた。

 にもかかわらず芭蕉は、待望の松島を漢詩文の引用や島々の擬人化をはじめ技巧を凝らした美文で紡ぎ出す一方、口をつぐんだ。「ほそ道」に採った句は、碑にあった曽良の〈松島や...〉。肝心の主人公は一句も詠めず、寝ようにも興奮のあまり眠れないという。ここに翁(おきな)の企(たくら)みがありそうだ。原点に立ち返ろう。

 「ほそ道」は創作だ。技巧的には「白河の関」で披露した「絶景の前の沈黙」という「文学的ポーズ」(連載第9回「道標」参照)が想起される。黙ることでかえって対象の存在感を引き立てる。心憎い演出である。俳聖をも黙らせる景観を求め、記者は高台の「西行戻しの松公園」へ駆け上った。

 狂歌師流の諧謔

 〈松島やああ松島や松島や〉。松島湾を見渡し口ずさむ。美人に「キレイですね」と言い寄っても仕方がないように、圧倒的な光景にただただ嘆息するばかりである。芭蕉の句と思われがちなこの歌。実は江戸後期の狂歌師田原坊の作で、感嘆詞の「ああ」は元々「さて」だった。仙台藩の儒学者桜田欽斎の松島案内「松島図誌」に収められ、流布したようだ。絶景を前に言葉を失った芭蕉への、狂歌師流の諧謔(かいぎゃく)といったところか。松島町文化財保護委員長の今野勝正さん(74)によると、町内では昔からこの歌が書かれた風鈴などが土産物として売られていたという。「庶民の間で広まったのだろう。地元でも勘違いしている人がいる」と笑う今野さん。「松島に参った芭蕉の姿をうまく突いているよう」と語る。

 〈島々や千々に砕けて夏の海〉(「蕉翁句集」)。芭蕉は松島をこう詠んだ。「散在する島々。眼前に広がる夏の海に、美しく砕け散っているようだ」。描写の重複を嫌い採用を見送ったのか、虚飾を排した写生のような一句。「ほそ道」の華美な記述とは対照的だ。人知を超えた自然の造形を前に、虚勢など意味をなさない。陸海空が織りなす松島の眺望は、ありのままの人間を慈悲深く包み込んでくれるようである。すがすがしい表情で兜(かぶと)を脱ぐ俳聖の姿が浮かぶ。

 「ほそ道」では、11日に瑞巌寺を詣で、翌12日に平泉へ出発。途中「道を間違え」、石巻の港で万葉歌人大伴家持も詠んだという金華山を望む。「日記」によると、瑞巌寺は9日中、雄島の前に訪れており、出立は翌10日。石巻は旅程に入っていたとみられる。道中、喉の渇きに苦しみ、宿に困り、大雨に降られた。旅の厳しさを演出し、石巻港からは地理的に見えないはずの金華山をも海上に眺めた。旅の感慨は、芭蕉流の意匠で文芸作品へと昇華されている。

 淡い期待を抱き石巻漁港(宮城県石巻市)の岸壁から太平洋をにらんだ記者だったが、変わらぬ海に広がる現代的な消波ブロックに「不易流行」を感ずるのみだった。