【 平泉 】<夏草や兵どもが夢の跡><五月雨の降のこしてや光堂>

 
中尊寺の金色堂覆堂(国重要文化財)と芭蕉像。覆堂は、金色堂を覆い保護する建物で、増改築を経て室町時代中期(16世紀)に現在の形になったとされる。写真の覆堂は1963(昭和38)年まで金色堂を覆っていたが、現在の新覆堂建設に伴い移築された

 塩釜、松島と、海沿いを東に来た松尾芭蕉たちは、石巻から一転、北上し内陸へ向かった。目指したのは平泉(岩手県平泉町)だった。

 平泉は12世紀、奥州藤原氏が居を構えた「古都」である。人口は10万人とも。藤原清衡が造営に力を注いだ中尊寺や、基衡、秀衡が多くの伽藍(がらん)を造営した毛越寺(もうつうじ)に象徴される華やかな仏教文化が花開いた。

 同時に悲劇の舞台でもある。1189(文治5)年、都は源頼朝率いる鎌倉勢に攻められ燃え落ちた。兄頼朝と敵対し、この地でかくまわれていた源義経も同年、自刃した。その平泉に芭蕉と河合曽良がたどり着いたのは1689(元禄2)年5月13日(陽暦6月29日)だった。

 完成度高い文学

 平泉の場面は、松島などと並ぶ「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)のクライマックスの一つといわれる。解釈はいろいろあるが、文学としての完成度の高さは確かだろう。簡潔な文章と、芭蕉の〈夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡〉〈五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂〉、曽良の〈卯(う)の花に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)かな〉の計3句。ここに無常観が結晶している。

 ことに「夏草や―」の句(夏草の茂るこの地は兵士たちが功名を夢見て戦った跡。私も夢にその面影を感じたことだ、の意)は、多くの人が知る傑作。

 さらに、わずかに残った遺産の一つ、中尊寺金色堂で詠んだ「五月雨の―」(すべてを朽ちさせる五月雨もここには降らずに残したのか、光堂は今も光を放っている、の意)の句で、虚無の中に光を見つけ、締めくくる。完璧だ。

 平泉に向けて情感を高める演出も、作中施されてきた。飯塚(福島市飯坂)の場面、佐藤一族(奥州藤原氏や義経の家来)の物語にふれ、芭蕉は涙を流した。この涙は、時刻の移るまで涙を流したという、義経自刃の地、高館(たかだち)の場面への助走だろう。

 さて、記者もクライマックスの地を巡る。金色堂や復元された毛越寺の浄土庭園など旧跡が点在する「文化遺産の中にあるまち」は、やはりすごい。ただ、国道4号を車が走る高館からの風景には、時の流れを感じながらも、芭蕉と心が重なる、というほどではない...。

 西行との一体化

 すると、名ガイドの一言が、視界を開いてくれた。古都ひらいずみガイドの会理事の岩渕洋子さん(80)は「『ほそ道』の旅は、義経と西行の足跡をたどる旅だった」と話す(「道標」参照)。

 歌人西行は、義経らの同時代人である。平泉には、大仏修復に使う砂金の勧請(かんじょう)などで2度訪れた。没年は1190年。義経が自刃し、奥州藤原氏が滅亡した翌年だ。芭蕉にとっても敬愛する旅の歌人だった。だが、なぜか芭蕉は、平泉の場面で西行の「さ」の字も記していない。そのため失念していたが、奥州の栄華と滅亡の、いわば目撃者。「西行は何を思っただろう」と考え、ふと思い当たった。

 芭蕉は、彼の存在を消し去ったのではなく、逆に自身と重ね一体化を試みたのではないか。

 西行が、江戸時代の芭蕉に憑依(ひょうい)し、滅亡した平泉を見たなら何を思うか―。芭蕉の平泉紀行は、そんな仮想実験ではなかっただろうか。ならば、西行にふれなかったのは当然。芭蕉の言葉は、西行の言葉だからだ。

 西行にとって、平泉は未開の奥州に出現した新世界だったろうし、時代を切り開く人々の活気を感じたはずだ。しかし500年後は、荒涼とした風景があるだけ。無常とともに、失望も感じただろう。滅亡を傍観するしかなかった自身の無力を嘆いたかもしれない。だから、残された光堂に希望を見た...。

 まあ、記者の妄想である。真実は、平泉の草むらだけが知っていよう。

平泉

 【 道標 】義経、西行の足跡たどる

 この町を訪れる方々は皆「おくのほそ道」の平泉の場面に心ひかれるようです。一方、松尾芭蕉は、源義経や西行法師にひかれ、この地を訪れました。
 西行は、義経と同じ平安末期から鎌倉初期の人物で、芭蕉が憧れた旅の歌人です。平泉には、奥州藤原氏第3代秀衡公の治世に2度訪れました。そして〈きゝもせず束稲山(たばしねやま)のさくら花よし野の外にかゝるべしとは〉の一首を残しました。
 束稲山は、義経最期の地、高館から東に見える山です。西行の歌から当時、桜の名所だったことが分かります。今は再び、桜の名所にしようと地元で植樹などが行われています。
 時を経て芭蕉は、この束稲山を望む高館で、義経たちを思い涙を流しました。
 芭蕉が平泉を訪れた1689年は、義経が亡くなって500年後、西行が亡くなって499年後の年でした。ですから私たちは「おくのほそ道」の旅自体が、義経と西行の足跡をたどる旅だったのだと解釈しているのです。(古都ひらいずみガイドの会理事・束稲山吟社会長・岩渕洋子さん)