【尾花沢】<涼しさを我宿にしてねまる也><這出よかひやが下のひきの声>

 
江戸時代の町屋を90度向きを変えて修復した「芭蕉、清風歴史資料館」の館内。間口は8間、修復で短くなったという奥行きも十数間ある。真夏に来て、板の間で「ねまって」みたい=山形県尾花沢市

 松尾芭蕉と河合曽良が、出羽に入り3日目の1689(元禄2)年5月17日(陽暦7月3日)。二人は快晴の下、堺田(さかいだ)(山形県最上町)の「封人(ほうじん)の家」をたち、約30キロ南西の尾花沢(同県尾花沢市)へ向かった。

 尾花沢は羽州街道の宿場町。東の奥羽山脈と西の最上川とに挟まれた盆地にある。この町が芭蕉にとって出羽で最初の重要な目的地であり、ある人物との再会が大きな目的だった。

 その人が鈴木八右衛門。俳号が清風。紅花大尽と呼ばれる大商人で、出羽俳壇を代表する俳人だ。「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の尾花沢のくだりは、この清風のことしか記されていない。意訳すると「彼は富裕な人だが、心根は卑しくない。都にもたびたび旅しているだけに、旅愁を理解し、何日も自分たちを引き留めて、長旅の労をねぎらおうと、あれこれともてなしてくれるのだった」。

 どれだけ清風にぞっこんなんだと思うほどだが、「ほそ道」によくある虚構ではないようだ。

 伝説残した清風

 曽良の「日記」によると、芭蕉らは尾花沢に5月27日まで10泊した。この間、清風や周辺地域の俳人らとの句会はもちろん、毎日のように俳人らの自宅に招かれたり、ごちそうを持参した彼らの訪問を受けた。この歓待ぶりは、相楽(さがら)等躬(とうきゅう)らと交流した須賀川(7泊)などを思い出させるが、等躬は清風ほど絶賛されてはいない。

 清風とは一体どんな人物なのか。みちのくの好々爺(こうこうや)を漠然と思い浮かべつつ、尾花沢市の「芭蕉、清風歴史資料館」を訪ねると、予想は覆された。

 同市中町で、羽州街道(旧国道13号)に面して立つ資料館は、約150年前の造り酒屋兼反物屋を修復した大きな建物。この西隣が、清風の屋敷跡だ。

 職員の加藤美香さん(41)に聞くと、清風は当時、芭蕉より七つ下の数え年39歳。最上川の舟運や北前船による物流網をバックに、染料の原料である紅花など特産品の仲買や金融業で財を築いた商家の3代目。俳諧も30代で句集を相次ぎ出す腕前で、若い頃から京都、大坂、江戸に出張しては、俳諧の仲間を広げた。芭蕉とも、江戸で歌仙を巻いた旧知の間柄だった。

 「清風伝説」というのもある。江戸の商人たちに紅花の不買運動に遭った清風は、紅花を焼却してしまう。すると紅花相場が急騰し、清風は、残る在庫を高値で売りさばき巨額の利益を得る。さらにその金で吉原を3日間借り切り、遊女たちを休ませた―という。

 この粋な人間性は、芭蕉たちへのおもてなしにも見える。芭蕉来訪時、尾花沢は養蚕の最盛期で、忙しい清風宅には3泊しかしていない。残る7泊は、近くの養泉寺を借りた。多くの客が出入りするのに広い寺はうってつけだったし、改修直後でぴかぴかだったらしい。

 蕉風確立向かう

 清風やこの土地の人間味に芭蕉の詩心も共鳴したようだ。「ほそ道」に尾花沢の句とし記された4句のうち、最初の芭蕉の句〈涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也〉は、涼しさを満喫し、わが家にいるようにくつろいでいる、の意。「ねまる」は座る、くつろぐを意味する土地の言葉だ。

 〈這出(はいいで)よかひやが下(した)のひきの声〉は、養蚕室の下からガマガエルの声がする。こっちに這い出てこいよ、の意。養蚕で家中が忙しい中、何もすることのない芭蕉が、カエルに話し相手になってくれと呼び掛ける姿が浮かぶ。

 その土地で聞いた飾らない言葉で、自身の穏やかな気持ちと、土地の空気感をそっと詠んだ表現は新鮮だ。文学的技巧を尽くした松島とは対照的に、暮らしを見つめたノンフィクションの魅力がある。後藤吉美館長(67)は「『ほそ道』は太平洋側では、俳文に力が入っていたが、出羽に入り作風も変化した。その顕著なのが尾花沢。芭蕉が自分の作風『蕉風』の確立へと向かう重要なポイントだったろう」と言う。

尾花沢

【 道標 】山越え、くつろぎの日々

 芭蕉が尾花沢で残した句〈涼しさを我宿(わがやど)にしてねまる也〉の「ねまる」は、鎌倉時代からある古い言葉です。尾花沢周辺では、あいさつなど日常的に、例えば「ねまらっしゃい(ゆっくり、くつろいでください)」といったように使われます。
 当資料館の来館者に聞くと、青森や秋田、北陸の特に年配の方は「ねまる」の意味をご存じのようです。
 芭蕉は、出羽で初めて泊まった堺(さかい)田(だ)の封人(ほうじん)の家で、「ねまる」と出合い、尾花沢の句会で早速使ったのだと思います。
 尾花沢と言えば、芭蕉の長逗留(ながとうりゅう)でも知られます。鈴木清風からのもてなしと、清風ら地域の俳人たちと句会をじっくり楽しむため、滞在が10泊にも及んだと考えられます。
 芭蕉は、すでに須賀川滞在中、江戸の高弟杉山杉風(さんぷう)に出した手紙で、尾花沢に清風を訪ねる予定を記しています。清風が尾花沢にいる時期の情報をどこからか得たのでしょう。尾花沢では初めから、時間をかけ歌仙を巻くつもりだったようです。曽良の「日記」にも素英、小三良など地元の俳人たちの名前が多く出てきます。
 大変な思いで山を越えたどり着いた尾花沢で、芭蕉は、ゆっくり、くつろいだ日々を過ごしたのです。(芭蕉、清風歴史資料館館長・後藤吉美さん)