【鶴岡~酒田】<暑き日を海にいれたり最上川> 鮮烈に残した夏の記憶

 
酒田港で小アジ釣りを楽しむ庄内町の夫婦。「唐揚げにするとおいしい」と言う

 出羽三山の巡礼を無事果たした松尾芭蕉と河合曽良。ただ、山岳修行による肉体的疲労は、かなりのものだったようだ。特に芭蕉の消耗はひどく、体調不良は1週間近く続いた。

 二人は、1689(元禄2)年6月10日(陽暦7月26日)まで羽黒山の南谷に滞在し、同日昼すぎ、庄内藩の城下町鶴岡(山形県鶴岡市。以下地名は山形県)へ出発した。羽黒山から鶴岡までは20キロほど。夕方には同地で藩士、長山五郎右衛門(重行)宅に到着した。すると芭蕉たちは早速、粥(かゆ)を所望し、食べ終わると「眠休」(仮眠か)したと、曽良の「日記」にある。
 
 体調不良が続く

 長山氏は、鶴岡俳壇を代表する俳人で、芭蕉の来訪を楽しみにしていただろう。芭蕉たちが仮眠から覚めると早速、羽黒山麓から同行した近藤呂丸(ろまる)を含む4人で歌仙を巻き始めた。

 だが、同夜は一人1句ずつ詠み終了。翌11日、続行となるが、芭蕉が持病(胃腸病、痔(ぢ))で不快を訴え中断。終了は12日に持ち越された。三山巡礼の疲れが一気に出たようだ。

 この歌仙で芭蕉が詠んだ発句(一番最初の句)が〈めづらしや山を出羽(いでは)の初(はつ)茄子(なすび)〉(「俳諧書留」)。7日間、羽黒に参籠(さんろう)して山を出て来た目に、この初茄子の色はまことに新鮮で珍しく映る―の意(今栄蔵校注「芭蕉句集」)。出羽と、出端(いでは)(出ぎわ)が掛けられている。

 詠まれたナスは、鶴岡名産「民田(みんでん)なす」といわれる。小ぶりでまん丸な品種で、漬物が粥と一緒に出されたのか。ただ、胃弱の芭蕉が食べたのかは不明だ。

 さて、長山邸に3泊した芭蕉たちは13日、川船で酒田(酒田市)へ旅立った。「日記」に「船ノ上七里也(約30キロ移動)」とある。

 酒田は、最上川の河口にできた港町である。目の前は日本海。船での移動は納得だが、資料では、鶴岡の内川から赤川に入り酒田に至った―とあり、地図を見ると違和感を感じた。赤川は酒田のずっと南手前で海へ注いでいるのだ。すると「赤川の流れが今と昔とでは全く違うからです」と、酒田市立資料館の相原久生調査員(53)が解説してくれた。赤川は大正時代から河川改修が行われ、日本海へ注ぐようになったが、芭蕉の頃は最上川に合流していたという。

 つまり「芭蕉の船は、赤川から最上川に入ると、その広い河口を北へ横切って酒田の港、日和山の南の船着き場で上陸した」と相原さん。そう聞くと、酒田への船旅のイメージが、一気にでかくなった。

 庄内平野は広い。最上川の河口も、海に向かってがばっと喉を開けている。記者は、海が一望できる日和山公園で芭蕉の句碑などを見物した後、芭蕉上陸の地という船場町から港のあたりを散策した。すると、庄内町から来たという70代の夫婦が小アジ釣りに熱中していた。これが港町の開放感かと思った。

 この開放感を芭蕉も船上で満喫できたのかは分からない。なにせ体調不良は続いていた。酒田上陸後、すぐ向かったのも俳人で町医者の淵庵不玉(伊東玄順。淵庵は医号、不玉は俳号)の家。季節は真夏、暑さもこたえたに違いない。

 句が復活を証明

 ただ、酒田で体調は着実に回復した。芭蕉たちは酒田入り3日目の6月15日、約40キロ北の象潟へと旅立っている。その前日14日には、寄宿した淵庵や、酒田の浦役人、寺島彦助(俳号・安種亭令道)らと歌仙を巻いており、港町の開放感と、旦那衆との交流が、俳聖の気力、体力をよみがえらせた気がする。

 この句も、芭蕉「復活」の証拠だろう。〈涼しさや海に入(いれ)たる最上川〉(「俳諧書留」)。酒田入り2日目の句会で詠んだ、芭蕉の発句である。この句は、さらに推敲(すいこう)を経て〈暑き日を海にいれたり最上川〉として「おくのほそ道」に掲載された。夕日を沈め、一日の暑さも海に押しやって、最上川が流れていく、の意(佐藤勝明氏訳)。「暑き日」は素直に読めば「暑い一日」だが、読む者はどうしても夏の日本海に沈む「熱く大きな日=太陽」を眼裏(まなうら)に浮かべてしまう。「海に太陽を沈める大河」、この雄大な表現は、大自然と対峙(たいじ)した出羽三山での体験が影響している気がしてならない。

【鶴岡~酒田】<暑き日を海にいれたり最上川>

 【 道標 】文化と食魅力「商人の町」

 酒田の町の印象は、まず京都の文化が色濃いことです。繁華街と寺町が接していたりします。もう一つは「食」にあふれていること。広い農地と海に恵まれ、コメや野菜、海産物など何でもあります。
 この、文化と食の豊かさ、多様性は、自然環境と古くからの人々の営みによって築かれ、酒田独特の風土を生みました。
 京都など「異国」の文化は、北前船の寄港地として海からもたらされました。そして、この文化交流の歴史は「来る者は拒まず」という気風を生みました。今もクルーズ船が寄港し、外国人観光客、特に個人旅行者が急増しています。
 食の豊かさ、つまり生産力の高さも、町の気風と関係しています。酒田では中世の頃から、廻船(かいせん)問屋などの商人たちが町政を取り仕切り、その自治組織は「酒田三十六人衆」と呼ばれました。
 江戸時代には、酒田の本間家は「日本一の大地主」として知られ、庄内藩の財政を支えました。「本間様には叶(かな)わぬが、せめてなりたやお殿様」と俗謡にうたわれたほどです。
 この経済力によって築かれた自治都市酒田の開放感が、現在も国内外から人々を呼び込んでいるのだと思います。武家の町、鶴岡との昔からのライバル意識も、良い意味で作用してるのではないでしょうか。(若葉旅館専務・矢野慶汰さん)(インタビューを基に構成)