【 象潟 】<象潟や雨に西施がねぶの花> 憂いを帯びた『美女の趣』

 
蚶満寺付近から望む象潟の九十九島の景色。左は駒留島。記録的な暖冬で象潟付近も全く雪がない=2月2日、秋田県にかほ市

 象潟は、秋田県にかほ市にあった無数の小島が点在する入り江である。昔から松島と並び称される景勝地として知られた。

 そして松尾芭蕉が訪問を熱望した「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)の旅最北の到達地だ。象潟の場面はこう始まる。「美しい景色を数限りなく見て来て、いよいよ象潟に赴く今、期待に心が気負い立つ」(意訳)。芭蕉の高ぶりが伝わってくるだろう。
 だが、象潟について何も知らない記者は、ピンと来ないまま2月上旬、列車に乗り込んだ。

 よく変わる天気

 1689(元禄2)年6月15日(陽暦7月31日)、芭蕉と河合曽良は、酒田(山形県酒田市)をたち、吹浦(ふくら)(同県遊佐町)で1泊した後、翌16日、雨の中を象潟のほとりの集落、塩越にたどり着いた。折から塩越では熊野神社の祭り。芭蕉たちは混んだ宿を変えるなど、気ぜわしく過ごしつつも、海に近い象潟橋で雨の夕景を楽しんだ。

 翌17日は、待望の象潟巡りである。水辺の蚶満寺(かんまんじ)から絶景を楽しみ、昼には雨も上がり日が差してきた。さらに祭礼での踊り見物、夕食後は舟での象潟遊覧と、バカンスさながらの様子が曽良の「日記」には記される。

 この事実に基づきながらも、「ほそ道」では、しっとりとしたドラマが展開される。

 例えば象潟への道中。右手の鳥海山は雨で見えない。「雨も又奇(き)也(雨もまた味なもの)」だが、雨上がりの景色も期待できると、浜辺で野宿する。翌朝は一転晴れ上がり、朝日の中、象潟に舟を浮かべる―。この雨景と晴色との対比、実に美しい。
 ただ、分かりやすい演出だなと記者は思っていた。しかしだ、象潟駅に降り立ちしばらくすると「演出でもなさそうだ」と思い始めた。現実の象潟も、実に天気が変わりやすいのだった。

 心を騒がす風景

 空模様を気にしつつ記者は、まず道の駅象潟「ねむの丘」の展望塔に上った。そして、陸の方角を望むと、芭蕉の高ぶりが一気に腑(ふ)に落ちた。

 国道7号と山裾の間の枯れ野に、小ぶりな丘が無数にある。かつて入り江だった象潟は、1804(文化元)年の地震で隆起し陸になった。点在する小丘は、すべて当時の小島だ。さらに遠景には、鳥海山を盟主とする山並みがそびえ、振り返ると日本海。巨大で現実離れしたパノラマを完成させている。

 この心を騒がす風景を、芭蕉は美女にたとえた。

 〈象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花〉。象潟の美景の中、雨にぬれる合歓(ねむ)の花は、眠りについた西施の面影を彷彿(ほうふつ)とさせる、の意(佐藤勝明氏訳)。西施は、越の国から呉の国王に献上された中国古代の美女のことだ。

 芭蕉はこうも記す。「象潟は松島に似ていて、また違う。松島は笑うようで、象潟は恨むようだ。その土地の趣は(悲しい境遇の)美女が憂いに閉ざされているようだ」(意訳)と。

 確かに、先刻までの青空がうそのように降り出す小雪の中、田んぼになった昔の島々の間を歩きながら見る風景は、憂い顔の美女を思わなくもない。しかし、少々渋すぎではないか...。

 すると訪れた蚶満寺で、修行中の横山智弘さん(29)が「象潟を見るなら田植えの頃が一番」と教えてくれた。春には小丘群の間の田に水が張られ、その風景は、しっとりと美しく、海だった象潟を思わせるのだと言う。

 とぼとぼと季節はずれの旅人か―とつぶやきつつ戻った道の駅で、うどんをすする。すると店の佐藤洋子さんに「芭蕉が象潟で最初に食べたのは、うどんだったのよ」と言われ驚く。確かに「日記」にあった。そこへ佐藤さんの夫と、にかほ市観光案内人協会の伊藤良孝さん(78)が現れ「〈汐越や鶴はぎぬれて海(うみ)涼し〉の句は、海に足をつけた女性の立ち姿を詠んだ」と語り、ついでに「松島が鈴木京香なら、象潟は壇蜜」なんてことも言う。

 ああ、この雰囲気、象潟の場面を締めくくる3句と同じだと思い当たった。それぞれ、祭りの食事、夕涼みする家族、岩の上のミサゴの夫婦を詠んだ曽良たちの3句は、スナップ写真のように、土地の人の温かさ、家族の情を写し出している。象潟の場面の秀逸なエピローグである。

象潟