【出雲崎~市振】<荒海や佐渡によこたふ天河><一家に遊女もねたり萩と月>

 
急に荒れ出した海の上を滑るように飛ぶ海鳥。日本海の上空はすっかり雲に覆われ佐渡の島影は見えない=新潟県柏崎市西山町大崎

 象潟の旅を終え「おくのほそ道」(以下「ほそ道」)は終盤に入る。佐藤勝明和洋女子大教授は、物語の構成を舞楽・能楽の構成形式「序破急」に照らし、日本海沿いをたどり終着へ至る旅程を「急」のパートだという。言葉通り物語は加速する。

 『物語』一気に加速

 松尾芭蕉と河合曽良は、象潟から戻り酒田で7泊した後、1689(元禄2)年6月25日(陽暦8月10日)、いよいよ北陸道の旅に出た。しかし越後路の旅約300キロは、「ほそ道」では出羽と越後の境の鼠ケ関(ねずがせき)を越え越中(実は越後)市振(いちぶり)の関に至った―と、たった一文で終わる。芭蕉もやりすぎと思ったか「この間9日(実際は鼠ケ関―市振間は14日)は暑さと雨で疲れ、病気になり、メモも取らなかった」と記した。

 省略の理由は二ついわれる。一つは物語の速度を増す演出。もう一つは病気、俳諧の機会が少ない、新潟など各地で宿探しに苦労し、柏崎では不快な目に遭ったなど現実的な理由だ。

 ただ、締めの2句を読むと、そんなことはどうでもよくなる。〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉。1句目は「七夕を控えた七月六日ともなると、どこかいつもと違う気配である」。有名な2句目は「荒波が立つ海の彼方(かなた)、佐渡島にかけて天の川が横たわっている」の意(佐藤教授訳)。月山での一句と同様、広大無辺な宇宙の広がりを思わせる。

 「荒海や―」の句は、芭蕉が出雲崎に7月4日泊まった際、詩想が生まれた。今の新潟県出雲崎町は、漁港がある人口約4400人の町。記者は、市街地の小さな芭蕉園で、芭蕉像と石碑を見つけた。石碑は、芭蕉が「ほそ道」執筆の前に書いた句文「銀河の序」を刻んだものだ。この句文は、出雲崎宿泊時に見た、佐渡島の浮かぶ日本海と、銀河が浮かぶ夜空の、豊かで同時に寂寞(せきばく)とした情景が描かれ〈あら海や佐渡に横たふあまの川〉の句で締めくくられる。

 当時の新潟は著名な俳人もいない辺境だったろう。だが、辺境の空白でこそ芭蕉は、巨大な自然と、その中の人間の孤独を昇華させた。

 北陸道一の難所

 さて、芭蕉たちは親(おや)不知(しらず)・子(こ)不知(しらず)の難所を越え7月12日、越後・越中間の関がある市振宿(新潟県糸魚川市)に着いた。

 この場面は有名だ。締めの句〈一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月〉。自分と同じ宿に遊女も泊まっているのか。折しも庭の萩には月光が差している、の意(同)―が、艶っぽいからだろう。

 しかし市振を訪れると、記者の印象は一変した。曇り空もあるが、町並みが寂しい。この後、少し戻り北陸道一の難所、親不知を改めて望むと確信した。

 市振の場面で芭蕉が意図したのは艶ではなく、人生の無常、孤独である。伊勢参りへ向かう若い遊女2人が宿に居合わせ、心細いのでと、芭蕉たちに同行を求めるが、芭蕉たちは断る。彼女たちの境遇を考えると哀れだが、しかたない―。日本海の波とみぞれが打ち付ける断崖を前に記者は、この若い遊女たちが、この世の者ではなく思えてきたのだ。苦界を脱しようと旅に出ながら、難所で命を落とした...。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」で冥界を巡ったジョバンニとカンパネルラをふと連想した。日本海の銀河がイメージを導くのか。これも、みちのくの風流の一端だろう。

出雲崎~市振