【旅の終わりに】俳人・長谷川櫂さん(中) 宇宙の中に「不易流行」

 
 はせがわ・かい 1954年、熊本県生まれ。東大法学部卒。読売新聞記者を経て、創作活動に専念する。「朝日俳壇」選者、サイト「一億人の俳句入門」で「ネット投句」「うたたね歌仙」主宰、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表。66歳。

 「おくのほそ道」の旅を経て、松尾芭蕉の創作表現には変化が表れた。この旅の成果の一つが「かるみ」。さらに「不易流行(ふえきりゅうこう)」―変わらぬものと、変わりいくものの根源は同じ―という芭蕉のもう一つの俳諧理念も、この旅で見いだされたといわれる。では芭蕉は、どこで、どのように、この考えにたどり着いたのか。前回に続き、俳人の長谷川櫂さんに聞いた。

 「おくのほそ道」の旅の成果として「かるみ」があると前回話しましたが、本文には「かるみ」の「か」の字もなければ、芭蕉のもう一つの俳諧理念「不易流行」の「ふ」の字も出てきません。ただ、この旅の後の芭蕉の発言や行動から、「かるみ」「不易流行」はこの旅の過程でつかんだものだと、多くの研究者も推察しています。

 では、芭蕉は旅のどこで「不易流行」「かるみ」を捉えたのか。本文では全く触れられていないため、読む側の「読み」にかかってきます。

 私の読みを申し上げると、まず「おくのほそ道」は、その面影が歌仙と似ています。

 歌仙は、36句から成る連歌・俳諧の形式で、6句、12句、12句、6句と、4部で構成されます。同じように「おくのほそ道」も、よく読むと4部に分かれていることが見えてきます。芭蕉にとって歌仙は、自分の骨髄というくらい命を懸け練り上げた文芸でした。ですから、ほかの文章を書くときにも、歌仙の影響が出てくるわけです。

 どのように分かれているかというと、白河の関、尿前(しとまえ)の関(宮城県大崎市)、市振(いちぶり)の関(新潟県糸魚川市)の三つの関で区切られています。

 そして、それぞれの関所の前後には必ず難所が置かれています。白河の関の前には、毒気を放つ殺生石。尿前の関の後には、山刀伐(なたぎり)峠など命からがら越える峠道。市振の関の前には、親不知(おやしらず)・子(こ)不知という海沿いの難所があります。芭蕉は、こうした難所を越え新しい世界へ進んで行く。これは、試練を経て姫君を手に入れるという物語の手法です。それを芭蕉は「おくのほそ道」に自由に取り入れて構成したわけです。

 では、この四つの部分は、それぞれ、どういうテーマで描かれているでしょう。

 最初の、深川から白河の関までは、寺や神社が次々と出てきます。芭蕉は、雲巌寺や日光など各地の寺社仏閣にお参りし、〈夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉(かな)〉などの句を詠み、旅の安全を祈願します。つまり長旅の助走ともいえる祈りの期間が、白河の関まで続きます。

 歌枕、重要な働き

 白河の関を越えると、いよいよ「おくのほそ道」の本題に入ってきます。ここからは歌枕が重要な働きをします。

 芭蕉は、白河の関から信夫文知摺(福島市)や末の松山(宮城県多賀城市)など多くの歌枕を訪ね平泉に至ります。しかし、ことごとく失望します。なぜなら川の流れが変わり、道は付け替えられ、木は生え替わり、ほとんどの歌枕は、かつての姿をとどめていなかった、と芭蕉は理由を記しています。

 例えば末の松山。ここは〈君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波の越えなん〉(「万葉集」)、つまり「末の松山を波が越えないように、私があなたへの思いを裏切ることも決してない」という和歌がある通り、永遠の愛の誓いの歌枕です。しかし芭蕉は「今は墓場になっている」と非常に皮肉な文章を残しました。

 時間の流れによって姿を変えたり、行方が分からなくなっている歌枕。この状況は人間の人生そのままである、という感想を芭蕉は持つわけです。

 しかし、その中で、変わらない歌枕がいくつかありました。

 その一つが壷(つぼ)の碑(多賀城市)です。芭蕉は、変わらずにあった、この歌枕に大感激し「千歳(せんざい)の記念(かたみ)」という言い方をしています。ただ、これは仙台藩が多賀城碑を壷の碑と認定したもので、後に違うことが分かりました。

 もう一つが平泉の中尊寺です。〈五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂〉、ほとんどの歌枕は失われているけれど、光堂は五月雨に降り残されて今も光を放っている―。五月雨は、川が時間の比喩であるのと同じで時間を思わせる。つまり、時間の猛威にもかかわらず光堂は残っていることに、そこで気付いた―という句です。まさに、この句が象徴しているのですが、時間によって世界はどんどん変わっていく―というのが第2部の大きなテーマで、ただし芭蕉は、その中にも変わらないものがあるのではないか、と気付き第3部へ進むのです。

 月や太陽、銀河を意識

 続く第3部は(スケールの)大きな句が多く並んでいます。まず、出羽三山で〈涼しさやほの三(み)か月の羽黒山〉〈雲の峰幾(いく)つ崩(くずれ)て月の山〉という月の句。次に酒田へ出て〈暑き日を海にいれたり最上川〉と、太陽の句が続きます。

 越後路に入ると〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉という天の川の句が二つ並んでいます。

 このように宇宙の天体が次々と登場し、異様な感じがします。これが一体どういう意味かという学問的な研究は、ほとんど目にしませんが、明らかに特徴的なものとして天体が詠まれている。そして本文にも、芭蕉が宇宙を意識していたことが記されています。

 月山に登る途中の「日月行道(じつげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(いる)かとあやしまれ」のくだり。日月行道の雲関は、太陽と月が運行している宇宙空間のこと。つまり「宇宙の中に紛れ入るような気がする」と書いている。これが第3部のテーマです。そして、この体験を基に「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして―」という「おくのほそ道」の冒頭の名文が書かれました。

 さらにいえば、芭蕉は「不易流行」という理念を、この第3部で「日月行道の雲関」を旅しているうちにつかんだのだと思うのです。

 時間が全てを押し流していくけれど、変わらないものがある。第2部から第3部に持ち越された、このテーマを抱きつつ芭蕉が宇宙を眺めていると、太陽は移動し、昇ったり沈んだりする。月も満ち欠けし、天の川も移り変わっていく。宇宙は常に変化を繰り返している。けれど宇宙全体としての実体は何も変わらない。芭蕉はそう気付くわけです。この、変化を繰り返しているものが、実は何も変わらないんだということ、これがまさに不易流行なんです。

 不易流行というと、不易〈変わらないもの〉と、流行〈変わるもの〉が別々に存在するという意味に捉えられがちですが、流行しながら何も変わらない、つまり「不易=(イコール)流行」です。この不易=流行をつかみ、芭蕉は第4部へと向かうのです。

旅の終わりに