【旅の終わりに】俳人・長谷川櫂さん(下) かるみの先に心の安寧

 
 はせがわ・かい 1954年、熊本県生まれ。東大法学部卒。読売新聞記者を経て、創作活動に専念する。「朝日俳壇」選者、サイト「一億人の俳句入門」で「ネット投句」「うたたね歌仙」主宰、「季語と歳時記の会(きごさい)」代表。66歳。

 松尾芭蕉来福330年の節目に始まった連載「おくのほそ道まわり道」は、今回で幕を閉じる。最後に、芭蕉は、この奥州・北陸の旅でつかんだ人生観を、どのように作品に昇華させたのか、俳人の長谷川櫂さんに結んでもらった。

 前回は、「おくのほそ道」の第3部にあたる尿前(しとまえ)の関から市振(いちぶり)の関までの旅で、芭蕉は宇宙空間に入って行くような体験をし、「変化をくりかえしているものこそ実は何も変わらないのだ」という「不易流行(ふえきりゅうこう)」という宇宙観をつかんだという話をしました。
 この第3部は「おくのほそ道」の中でも重要なので、もう少し続けます。

 その最後に七夕を詠んだ句が二つ置かれています。〈文月(ふみづき)や六日も常(つね)の夜(よ)には似ず〉〈荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこたふ天河(あまのがわ)〉です。

 1句目は、織り姫とひこ星が逢(あ)う七月七日の七夕、その前の七月六日の夜も、いつもと違うように見える―。といっていて、恋する星のときめきを詠んだ句です。

 2句目は、まさに星の恋の句です。この句を読むと、海の向こうに佐渡があり、その上に天の川が横に流れているイメージが浮かびますが、句が詠まれた出雲崎あたりでは、天の川は、佐渡に向かって縦に延びている。ではなぜ「よこたふ」といったのかというと、佐渡を枕に天の川が横たわっているわけです。織り姫とひこ星が今、佐渡を枕に二人寝ている―。言葉はみやびやかですが、星のベッドシーンが描かれているのです。

 この宇宙の恋から人間の恋へ一転するのが次の市振です。〈一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月〉の句が置かれ、遊女たちと同じ宿に泊まった芭蕉たちは、一緒に付いていきたいと言う遊女たちを振り切って旅を続けた、と書かれています。恋を商いにする遊女、最下層で生きる人間の恋が出てくる。宇宙から一挙に、人間の世界に展開する、ここが見どころなんですね。そして、この句から人間界をたどる第4部が始まっていくのです。

 ここで確認しておきたいのは、不易流行は、芭蕉の宇宙観だということです。ところが旅を終えた後、弟子たちと話しているうちに俳諧の作り方に応用されていき、芭蕉は俳諧にも不易流行があると言いはじめる。弟子の(向井)去来はそう書いています。宇宙観である不易流行が文学論として応用されるわけです。ただ不易流行は、もともと芭蕉の宇宙観だったということをしっかり押さえておく必要があります。

 宇宙からの視点

 さて不易流行という宇宙観をつかんで人間界に戻ってきた芭蕉は、この第4部でいろんな人との「別れ」を次から次に経験します。

 市振での遊女との別れに次いで出てくるのが、金沢の俳人、(小杉)一笑との別れです。芭蕉が訪ねていくと、一笑はすでに死んでいました。次に出てくる大きな別れは、曽良との別れです。江戸からずっと付いてきた曽良が、山中温泉で体を壊し、一人で先に旅立ってしまう。さらに、金沢から同行した弟子の(立花)北枝とも、加賀の国から越前に入る時、別れています。そして最後、大垣で多くの人々と別れて伊勢へ旅立つ―という経緯をたどります。

 芭蕉は第3部とは打って変わって、第4部では生き別れや死に別れを次々と経験する。同時に、この過程で言葉がだんだんと軽くなっていき、芭蕉は最後に〈蛤(はまぐり)のふたみにわかれ行(ゆく)秋ぞ〉という句を置きました。これが、人間の世界を宇宙的な観点からながめる「かるみ」に芭蕉が気付いたことを示しているわけです。

 人間界にどっぷりつかっていると、誰と別れなくちゃいけない、誰に死なれてしまったと一喜一憂して大変です。無常な時間にもみくちゃにされる人間界にどっぷりつかるのではなく、宇宙の高みから人間界を見下ろす―これが「かるみ」なんですね。

 この「かるみ」はある意味で非情な精神なんです。親と死に別れようが、子と生き別れようが、それを軽々と乗り越えていく。そういう精神です。それが、芭蕉に安心の境地を提供したのではないかと思うのです。

 では、芭蕉はこの「かるみ」を「おくのほそ道」のどこでつかんだのでしょうか。本文から見る限り、第4部で、不易流行という宇宙観を人間の世界に当てはめたとき、それが「かるみ」という形をとったのだろうと思います。つまり、人間の世界の不易流行が、「かるみ」という言葉で語られているのです。
 その「かるみ」の成果として、〈蛤のふたみに〉の句が最後に置かれているのだろうと思うんですね。

 以上が、私が考える「おくのほそ道」の構造です。

 古典はずす試み

 こうして芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出発する時抱いていた「時間の猛威の中で、どうやって生きていくのか」という問いに対する一つの解答として「かるみ」をつかみました。

 旅の後、亡くなるまでの5年間、「かるみ」を創作で実践することに取り組みます。しかし、その過程で芭蕉は非常な困難にぶつかりました。

 旅の後、関西にとどまった芭蕉はまず京都の弟子、去来や(内藤)丈草と俳諧選集「猿蓑」を作りますが、そこに収められた句や歌仙は、西行や能因らの古典作品を下敷きにした作品でした。当時の江戸時代前半は古典主義の時代で、芭蕉も古典の中で育った人です。「おくのほそ道」の句や文章も、古典の知識がないと読み進められません。

 ただ「猿蓑」は、それ以前の選集の、宗祇など固有名詞が出てくる露骨な古典主義ではなく、古典を「面影」にして詠む作品が多く並んでいます。「源氏物語」の原典では光源氏が門から出る場面を、門から入る場面に変えるというふうに少しずらして詠む。面影という洗練された古典主義の「猿蓑」は芭蕉最高の選集と評価されています。

 ところが「かるみ」にとらわれた芭蕉は、ここにとどまることができませんでした。考えてみれば、古典主義ほど文学にとって重苦しいものはありません。そこで芭蕉は古典から逃れようと考えた。古典になじんだ京都の弟子たちから離れ、江戸に出て、今度は両替商の手代たち、今で言えば大銀行の部課長のような経済人と歌仙を巻き、俳諧選集「炭俵」を作りました。作品は古典を下敷きせず、日常の言葉で詠まれています。米相場などお金勘定の話もたくさん出てきます。

 芭蕉は、古典から離れようとしたわけです。しかし芭蕉にとって、これが苦しいんですね。古典の中で育った人だから、古典を自分からはずすのは苦痛でもあった。それに疲れ果てて大坂へ向かうのですが、大坂に着くと亡くなってしまいました。古典をはずすことは、芭蕉にとって自殺行為だったわけです。

 最後に行き着く

 ただ、大坂で亡くなる前のひと月の間に、生涯の名句がいくつも生まれました。例えば〈秋深き隣は何をする人ぞ〉。この句は、これだけで分かる。古典とは何の関係もないようにみえる。しかし実際は杜甫の漢詩を踏まえている。けれど、原典を知らなくても、ちゃんと分かるという句作りになっているのです。

 そして芭蕉最後の句が〈旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る〉。これも、そのまま分かりますよね。しかし、杜甫の詩を下敷きにしています。

 一度は、古典をはずすことが「かるみ」と考えた芭蕉ですが、実は古典を踏まえて古典を意識させない、そこに道があった。これが死の直前、最終的に行き着いた芭蕉の「かるみ」の境地だったのです。 =おわり

旅の終わりに