【震災7年・時間を超えて】記者ルポ(4)食堂に高校生の姿、南相馬・小高区

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赴任時と変わらない笑顔と味で谷口記者を迎えてくれた双葉食堂の豊田さん(左)

 地震で崩れて規制線が張られた家、陥没と亀裂で通行止めの道路。津波で流失したまま置き去りにされ、朽ち果てた数百台の車両。

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故前、約1万3千人が暮らした土地からは生活の痕跡が消え、住民らも将来を見通せないほど街は荒廃していた。記者の記憶に残る震災から約1年後の南相馬市小高区だ。

◆笑顔の店主「夢みたい」

 今月3日、久しぶりに小高区を訪ねた。真っ先に向かったのは当時、同市鹿島区の仮設店舗で営業し、2016(平成28)年5月に地元・小高区で再開した老舗ラーメン店「双葉食堂」。店主の豊田英子さん(68)は変わらぬ笑顔で迎え、こう話してくれた。

 「作業員の方は減ったけど、新しく住み始めた若者だったり、高校生も来てくれる。夢みたいだね」。

 英子さんの言葉通り、店内は親子連れや若者でにぎわっていた。小高区の前向きな変化を感じ取るにはその光景だけで十分だった。

 入社2年目の記者が12年4月から3年間取材を担当した南相馬市は、津波で県内最多の636人が犠牲になった上、県内市町村で唯一、放射線量や第1原発からの距離に応じた線引きが全て設定された。

 特に小高区は全域で避難を余儀なくされ、事故後の約1年間、住民の手が全く入らなかった。「本当に帰れるのか」「若者は戻るのか」。住民らは一様に不安を抱え、古里の再生を模索していた。

 一方の記者は震災発生時、卒業を控えた大学生だった。東京で大きな地震を体験したが、避難を強いられた人々の苦しみは想像するしかなかった。

 現実とイメージの差を埋めようと、赴任後は市内を駆けずり回り、ひたすら住民の話を聞いた。多くの人に原発事故の過酷さを教えてもらった分だけ、住民の強さを実感した3年間だった。

 当時を思い出しながら店外の列に並んでいると、偶然、知り合いの人と再会した。年末年始などに限った避難区域での特例宿泊の際、取材に応じていただいた小高区女場の神職、西山典友さん(65)だ。

 同市の避難指示解除(16年7月)に向けた準備宿泊の段階から小高区の自宅に戻り、店にも頻繁に足を運んでいるという。再会を喜びながら小高区の近況を聞くと、頬を緩めてこう話した。「元気になってきたよ。こんなに人が並んでいるんだから」

 懐かしい味で腹を満たし、市街地や国道6号を車で走った。車窓から見える沿岸部では防潮堤の建設や整地が進み、放置された車両は1台も見当たらない。再開したコンビニを利用する人の姿、修復されて通れるようになった道路。新築された住宅や真新しい店構えの商店も目に付いた。

 市によると、今年2月12日現在の小高区の人口は1126世帯2485人。震災前の5分の1程度だ。この数字の捉え方を少ないとみることもできる。それでも久しぶりの小高区は、数字には表れない復興を記者にしっかり伝えてくれた。(谷口隆治)