• X
  • facebook
  • line

【映画・けんかえれじい】喜多方・原作者の母校 バンカラの魂継ぐ

09/28 10:50

鈴木隆が在籍していた当時の学生の姿。腕組みしてポーズを決める応援団員(喜多方中第15回〈昭和12年卒〉卒業アルバムより)

 今や男子高校生の服装は、ブレザーに明るい色のズボン、カラフルなネクタイなどが主流だが、戦前は"硬派"な学帽と学生服が当たり前だった。そんな弊衣破帽のバンカラ学生たちが、けんかを繰り広げる青春映画が、1966(昭和41)年公開の高橋英樹さん主演「けんかえれじい」(日活、鈴木清順監督)である。結構知られた快作だが、実は会津が舞台だった。

 動画配信サービスで早速見てみた。時代は戦前の1935(昭和10)年ごろ。喜多方中(現・喜多方高)に転校してきた高橋さん演じる主人公の南部麒六が、仲間と一緒に会津中(現・会津高)の学生と鶴ケ城跡で決闘を展開する。

 しかし、なぜ喜多方中が舞台なのか。同校の歴史に詳しい元教師の小椋武さん(80)に尋ねると「原作者が卒業生なんだよ」と教えてくれた。同窓会名簿には、原作者の鈴木隆が喜多方中第15回・昭和12年卒とある。当時の教務日誌によると、鈴木は34年、映画と同じく岡山二中から喜多方中3年に編入している。父の実家が旧塩川町のため、会津に来たという。

 映画の学生たちは、授業中ははだし。学生服にゲタを履いて闊歩(かっぽ)する。「本当か?」と、当時を探るべく鈴木が卒業した年のアルバムを見ると、学生帽のつばを折り、学生服の上にマントを羽織った坊主頭の学生の姿があった。鈴木の同級生関原裕恭が、喜多方高の桜壇新聞第86号(76年発行)に寄せた文章にも、こうある。「当時、校内に、『質実剛健』という言葉がよく使われていた。(中略)実は蛮風・バンカラと同義語と誤解していたむきもあり、(中略)弊衣破帽は得意然とし、(中略)夏も冬も校内で上履きを用いず、用事で街へ出るのにも、裸足(はだし)であったような記憶がある」

 ただ映画では、彼らの野蛮なだけでない、文武両道の一面も描かれている。転校してきた麒六は「おまえら山猿じゃ」と、喜多方中の学生たちを田舎者とばかにする。しかし、麒六の級友は、柔道部でありながら俳句もたしなんでいる。

 鈴木は、喜多方中の学生を見直すきっかけとなった出来事について、桜壇新聞第85号(75年発行)に一文を寄せている。

 校内武道大会の柔道の試合でK君に内股を掛けられたT君は、転倒し大腿(だいたい)骨を折ってしまった。それでK君は、入院中のT君を見舞い「学帽の見覚えのあり寒き病室(へや)」の句を贈った。それを見た鈴木は「私は絶句した。『会津の山猿め』と、それまでなめていた私は、文武両道を眼前につきつけられ、『なるほど、これが会津か』と襟を正す思いであった」と記している。

 ただ、この映画、主に県外で撮影され、会津の風景はほぼ出てこない。それでも気になる場面があった。麒六が転校してきた日、校長が校長室の額を指し「『良志久(らしく)』と読むのだ。郷土の光、松平子爵様のお筆だが、軍人は軍人らしく、学生は学生らしくせよというご趣旨だ」と諭すのだ。この言葉は現在、大和川酒造店(喜多方市)の茶室入り口に掲げられていた。同酒造店9代目の佐藤弥右衛門会長(69)は「祖父から、会津出身の外交官だった松平恒雄を呼んで書いてもらったと聞いた。同じものが喜多方高にもある」と言う。

 早速同校へ行くと遠藤利晴校長(55)が校長室で、板に彫られた同じ書を見せてくれた。書には昭和10年10月14日の日付。同校で松平恒雄が講話した日だと教務日誌にあった。在学中だった鈴木は、講話を聞き原作小説の題材にしたのかもしれない。
 
 心に響く活躍 

 さて、大乱闘が終わり映画も最終盤。麒六は、決闘の首謀者として校長室に呼び出される。しかし校長は「わが中学の大勝利か。麒六、そうとうにやるのう」と、処分するどころか褒めたたえるのだった。この「若松に勝つ」結末に「喜多方の人々は気分が良くなり、年配の人は今も話題にする」のだという。

 首都圏の喜多方出身者でつくる会津喜多方会の冠木雅夫会長(68)は「喜多方市民の中には若松への対抗心がある」と言う。たとえば城下町の若松に対し、商人のまち喜多方は戦後、蔵の町並みやラーメンなど若松に対抗できるものを発見、開拓してきた。バンカラ学生の活躍は、今も喜多方の人々の心に響き続けていると感じた。

【映画・けんかえれじい】喜多方・原作者の母校

 「けんかえれじい」 旧制喜多方中の卒業生、鈴木隆の小説「けんかえれじい」を映画化した青春コメディー(1966年製作、公開)。時代は昭和初期。岡山二中の学生だった南部麒六は、若さをもてあまし、けんかに明け暮れる。軍事教練では教官と衝突し岡山を去ることになるが、転校した喜多方中でも、仲間とともに会津中の昭和白虎隊と決闘し勝利する。小説では、麒六の早稲田大進学、学徒動員、中国での軍隊生活までを描いている。岩波現代文庫(上下巻)で2005年復刊している。

          ◇

 旧制喜多方中 喜多方高の前身。当時の喜多方町長や地元住民らが古里に学校をつくるため粘り強く要望、建設費を地元が負担して1918(大正7)年開校した。若松への対抗心を表す喜多方高同窓会のエピソードがある。90(平成2)年、それまで同窓会とは無縁だった東京大卒のOBが会長に選ばれた。理由は当時の会津高同窓会長が京都大卒で「向こうが京大なら、おらほは東大で行くべ」と頼んだという。

          ◇
 
 松平恒雄 会津藩の実質的な最後の藩主、松平容保(かたもり)の六男。東京帝大(現・東大)卒業後、外交官として活躍。戦時中は宮内大臣として昭和天皇を支え、戦後は初代参議院議長を務めた。長女は、昭和天皇の弟、秩父宮と結婚した勢津子妃。

この記事をSNSで伝える:

  • X
  • facebook
  • line