「東北のシカゴ」
かつて郡山市は、治安の悪さをそう揶揄(やゆ)された時代があったらしい。いまでは笑い話のようなこの言葉は、現在の同市の様子とは結び付かず、2年前に赴任してきた平成生まれの記者にはいまいちピンと来ない。
部活中に撮影
この汚名を笑い話に変えたのは、時の流れだけではない。暴力がはびこる殺伐とした郡山で、音楽の力で街を変えようと立ち上がった人々の努力があった。昭和30年代前後の同市で起こった音楽活動をモデルにしたのが、1972(昭和47)年公開の映画「百万人の大合唱」(近代放映、須川栄三監督)だ。
高校教師、新田司(若林豪)らの市民音楽グループが、市民音楽祭を企画するが、地元の興行を仕切る暴力団の妨害に遭う。
撮影は71年、駅前アーケード街や安積高など市内各地で行われ、市民も出演した。同市音楽アドバイザー、佐藤守広さん(69)も、撮影に協力した一人。映画の制作を「郡山で音楽への機運が高まった象徴の一つ」と振り返り、安積高吹奏楽部の練習中に突然集められ撮影が始まったという。佐藤さんら部員たちは晩秋にもかかわらず、夏のシーンだからとTシャツ姿にタオルを首に掛け演奏。「もっと暑そうな表情で」と指示されたことなど、思い出を語ってくれた。
郡山は戦後、急激な人口増加で治安が悪化。当時も、駅前で発砲事件が発生し一帯が立ち入り禁止になるなど、暴力沙汰が日常的に起こっていたそうだ。
一方で佐藤さんは、市民から湧き上がる「音楽のうねり」を感じていたという。市民オーケストラや国鉄合唱団が生まれ、郡山二中と金透小には全国に先駆けオーケストラが誕生した。英国のBBC交響楽団など世界的なオーケストラの公演も次々に開かれた。佐藤さんは「市民が音楽を熱望する躍動感があった」と当時を懐かしむ。
暴力と音楽。そのはざまで揺れる郡山を表すような映画の登場人物が、不良少年の太田圭介(峰岸徹)。音楽への興味を胸に秘めつつも、暴力の世界から抜けられず悲劇的な結末を迎える彼の存在は、やがて音楽祭開催への大きな原動力になった。
夕焼けを背景に、高校生から奪ったトランペットを圭介が一人で吹いているシーンが印象的だった。場所は墓地に見える。市内の寺だろうかと調べると、安積高向かいの道因寺だと分かった。前住職の石田宏寿さん(75)によると、本堂に隣接する「御簾(みす)の間」と呼ばれる座敷が、新田の部屋として撮影に使われた。座敷は改築で取り壊されたが、本堂に続く廊下や自宅前の門に、当時の面影を見ることができた。
圭介がいた場所を探すと、石田さんが「石の門柱に見覚えがある」と墓地に案内してくれた。門柱が建てられたのは昭和11年と彫ってあり、高さも合う。周囲の風景はかなり変わっているが、実物で間違いなさそうだ。
時代経て育つ
映画の音楽祭の会場となったのは、今はなき市民会館だ。クライマックスシーンでは、会場に入りきれないほど大勢の市民が周囲を囲み、歌声と手拍子で一体となって乱入した暴力団員をはね返す。音楽が暴力に打ち勝ち、街が生まれ変わっていく姿が印象的に描かれている。
郡山市は88年に「暴力追放都市」、2008年に「音楽都市」を宣言した。近年もウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の公演や全日本合唱コンクールでの中高生の活躍など、培われた音楽文化が街に生きているのが分かる。指導者や指揮者として活動する佐藤さんも「音楽のエネルギーが半世紀を経て、温められて育っている」と実感を込めた。
いま、新型コロナウイルス感染症の影響で、音楽界も苦境に立たされている。コロナ禍に取材した郡山五中合唱部顧問の橋本厚子教諭(57)の言葉がふと思い出される。「音楽の火を絶やさないで」。激動の昭和に小さくともり、平成、令和と受け継がれて街に根付いた音楽の聖火。一日でも早くこの街に音楽が戻り、人々の心を温かく包むことを願ってやまない。(一部敬称略)
【アクセス】市民会館跡地は郡山駅から車で約5分、徒歩約25分。近くには中央公民館や公会堂、中央図書館などの文化施設が集まっている。安積高と道因寺は同駅から車で約15分。
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【百万人の大合唱】昭和30年代前後の郡山市で盛り上がった市民による音楽活動を題材にした作品。公開の1972(昭和47)年2月26日は、あさま山荘事件の最中で、映画の興行成績は芳しくなかったという。郡山青年会議所と郡山西ロータリークラブが2006(平成18)年、DVD化した。映画には、作曲家・指揮者の故山本直純さんが本人役で出演。主題歌「生きているなら」の作曲も手掛けた。冒頭では、デビュー当時の歌手、吉田拓郎(よしだたくろう)さんが「今日までそして明日から」を歌唱するシーンが見られる。
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【音楽によるまちづくり】1954(昭和29)年、国鉄郡山工場大食堂でNHK交響楽団の公演が実現し、音楽都市の礎となった。それ以降「音楽の途中下車」を合言葉に、勤労者音楽協議会(労音)による世界的なオーケストラなどの公演が次々と開かれた。64年、毎月第3金曜日を「コーラスの日」として街角で合唱する「十万人コーラス」運動が始まり、後には「二十万人コーラス」と改称、パレードなども盛大に行われた。この一連の音楽活動が注目され、「百万人の大合唱」として映画化された。