狭く暗いトンネルを抜けると、視界がぱっと開けた。車窓に流れる見渡す限りの海原と青空がまぶしい。鉄橋に車輪が弾む軽快な音に耳を傾けながら反対側の窓に目を向けると、昔ながらの瓦屋根の家屋が点在する牧歌的な風景が広がり、郷愁を誘う。
唱歌「汽車」の舞台とされる広野町。1912(明治45)年刊行の「尋常小学唱歌」として発表されて以降、世代を超えて歌い継がれ、町民の郷土愛を育んできた。歌詞に登場すると伝えられる情景を堪能しようと、JR常磐線久ノ浜駅(いわき市)から広野駅まで北上した。
今は山中 今は浜
今は鉄橋 渡るぞと
思う間も無くトンネルの
闇を通って広野原
広野駅に降り立ち、改札口のすぐそばに立つ歌碑を眺めると、なるほど、確かに歌詞と沿線の風景はほぼ重なる。発車時刻になると、駅構内に響き渡る汽車のメロディーが「舞台の地」であることをさらに印象付ける。
謎多き作詞者
ただ、どうしても違和感を感じる部分がある。歌詞に登場する「広野原」はどこなのか。このフレーズから想像する広大な原は車窓からは見えなかった。
実は、舞台を巡っては異説もある。町民は素直に「広野の原」が地名を意味すると読み解き、古里がモデルだと主張する最大の根拠としている。一方、「広い野原」とする解釈もあり、古くから新潟や静岡、九州など全国各地にいくつも候補地があるようだ。
作詞者と町のつながりをひもとけば、確固たる根拠が浮かび上がるのではないか。歌碑には「大和田建樹先生が東北地方を旅行した際、久之浜―広野間の景観を作詞したと伝えられている」という趣旨の説明文が刻まれている。このキーパーソン大和田建樹について詳しく話を聞こうと町役場を訪ねた。
「そもそも大和田氏が作詞したという根拠は乏しいんです」。期待とは裏腹に、応対してくれた職員からはそんな答えが返ってきた。町によると、大和田建樹(1857~1910年)は愛媛県宇和島出身の国文学者。明治時代、作詞家としても活躍し、代表作の一つに「鉄道唱歌」がある。職員は「当時の鉄道を題材にした唱歌の第一人者といえば大和田氏。地元ではそんな背景と広野原のフレーズが結び付き、大和田氏が広野まで旅して汽車を作詞したという見方が広がったのではないか」と推測する。舞台の地と主張する駅構内の歌碑については、町が1982年に建立し「いち早く舞台だと名乗りを上げる」(町職員)という狙いがあったようだ。
作詞者はベールに包まれているのが実態で、町との関わりを見いだせない中、やはり「広野原」の解釈に舞台を巡る"広野説"のよりどころを求めたい。そんな思いで元町長の根本重信さん(93)を訪ねた。町長時代の94年に童謡音楽祭「ひろの童謡(うた)まつり」を初めて開催するなど、今も町政の柱として受け継がれる童謡のまちづくりの礎を築いた立役者だ。
「かつて海沿いには一面の田んぼが広がっていたのです」。根本さんは、広野原は往時の青々とした田んぼを指していると考える。海と田んぼを背に列車が走る風景を間近に育ち「誰もが子どものころから広野が舞台だと信じて疑わなかった。町長に就任してから、ほかにも舞台とされる場所があることを知ったが、それでも車窓に映る当時の風景を思い出すたびに広野をうたった作品だと納得できる」と胸を張った。
町の復興拠点
沿線の景観は、10年前の東日本大震災を境に大きく変わった。田んぼが広がった広野駅東側は津波で特に大きな被害を受け、町の復興拠点となった。今では近代的なデザインのオフィスビルやホテルが並び、復興作業員らが暮らす宿舎が軒を連ねる。町が移住政策の柱とする新しい住宅地を造成する工事も進んでいた。
震災後に誕生した駅東西を結ぶ高さ約8メートルの自由通路に上り、かつて眼下に広がったはずの田んぼの姿を想像してみた。すると、海と山、遠くに鉄橋がかすむ今もある風景に加え、歌詞と結び付けるために欠けていたピースがそろった。
広野説の真相を知るすべは今はもうない。それでも、震災前の素朴でのどかな風景を思い浮かべると、広野をうたった作品だとふに落ちた。
【JR広野駅へのアクセス】久ノ浜駅で乗車し約10分。車の場合は常磐道広野インターチェンジ(IC)から約15分。
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【ひろの童謡まつり】唱歌「汽車」や童謡「とんぼのめがね」の舞台とされる広野町が1994(平成6)年から毎年開催している童謡音楽祭。童謡の継承と子どもたちの郷土愛を育むことを目的としている。東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きた2011年は中止となったが、12年に再開。震災後は音楽祭を通じて町民が絆を強め、復興へ心を一つにする場ともなっている。
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【広野駅の発車メロディー】2008(平成20)年3月から発車時には、上り線で童謡「とんぼのめがね」、下り線で唱歌「汽車」のメロディーが流れている。広野町が進める童謡のまちづくりの一環で、町商工会などがJR東日本水戸支社に要望し実現した。