2008年、修業を終えて31歳の時に貴千に戻った。当時は工場のみで、現在のような店舗は持っていなかった。祖父の代からの「大量に生産し、いかに首都圏に多く売るか」の考えを踏襲しており、小売りの考えがなかったのだ。当社だけではなく、周辺のかまぼこ店の多くが同様の業態だった。 3年間にも及ぶ私の修業は全て父の言う「付加価値のある商品作り」のためだった。父は「アリでもゾウを倒せる」の信念のもと、第2工場...
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