2度の大学受験に敗れ、父源次郎が社長を務める佐久間建設工業に入社した。私が20歳になる1970年ごろのことだった。ちょうど大阪万博が開催される年だったと記憶している。入社してから5年ぐらい現場に出ており、砂利採取の主任技術者や土木施工管理士の資格を取ったりした。 駆け出しの頃に強烈に覚えているのは、74年3月7日に三島町で発生したいわゆる「三島事故」だ。現場となった町内の高清水地区には供養碑が立...
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