【エールのB面】「暁に祈る」と「若鷲の歌」 絆を感じながら歌った

 
「『若鷲の歌』を聞いて慰めと奮起の思いが胸に込み上げた」と語る石井さん。手にするのは戦時中に使用していたライフジャケットとゴーグル

 戦争編に入った朝ドラ「エール」。主人公の裕一(窪田正孝さん)が戦時歌謡の作曲に携わるなど登場人物たちに時代の荒波が押し寄せている。劇中では、古関裕而が作曲した「暁に祈る」や「若鷲の歌」などにスポットが当てられていく。戦時下で音楽が果たした役割を考える。

 軍が歌詞検閲

 コロムビアに所属した作曲家古関裕而、元福島民友新聞社記者の作詞家野村俊夫、本宮市出身の歌手伊藤久男の「コロムビア三羽ガラス」。本県出身の3人による初のヒット曲が1940(昭和15)年に発売された「暁に祈る」だ。

 「エール」の劇中でも裕一、鉄男(中村蒼さん)、久志(山崎育三郎さん)の「福島三羽ガラス」が誕生の様子を演じた。

 陸軍省馬政課が愛馬思想の普及を目的に制作させた松竹映画「暁に祈る」の主題歌だが、歌詞には家族と別れ戦地に赴く兵士の哀感が表れている。古関は自伝で、念願の3人での共同制作を喜び「最も大衆に愛された快心の作」と振り返る。

 野村は作詞に苦労した。馬政課が歌詞を気に入らないと難色を示したからだ。書き直しが続き、7回目ごろにやっとOKが出た。野村は後日、「作り直すのが嫌になり『ああ』とため息が出たので、それを冒頭にもってきた」と冗談交じりに語っている。軍の検閲は厳しかった。

 野村は軍歌だけが士気を鼓舞するのではないと考え、戦争遂行に非協力的な歌を作った。だが「軟弱で人心を堕落させる歌」と片っ端から検閲で却下され、収入の道がふさがれた。やむを得ず戦時歌謡を作るようになった。「暁に祈る」以降は、検閲官から「思想が変わったようで結構」と大目に見られたという(斎藤秀隆著「野村俊夫物語」より)。

 戦場へ向かう兵士や家族は「暁に祈る」などを歌って別れを惜しんだ。見送る人々はどのような思いだったのか。「戦争一色の世情では『お国のため』が最優先。口には出せないが、無事に帰ってきてほしいと願った。古関さんの歌にはその思いが込められていた」。福島市のビアレストラン「ローゼンケラー」社長で、今も現役で働く小林光子さん(89)は語る。小林さんは古関の生家跡にほど近い福島市内の商家に生まれ、終戦時は福島高等女学校(現・橘高)の生徒。「隣組」の人や家業の従業員の見送りに何度も立ち会った。出征兵士を囲み、日の丸の旗を振ったり、歌を歌ったりした。「『エール』を見ていると当時の光景を思い出す」と目を細める。戦時中の女学校では農作業の手伝いや防空壕(ごう)づくり、縫製作業などを行った。「友達と運動したりはあまりできない状況だった。戦争は嫌だね」と振り返る。終戦後、小林さんは女学校でバスケットボールの猛練習に励み、46年と48年に全国優勝を果たす。

 短調の曲支持

 古関の戦時歌謡で忘れてならないのが43年、海軍航空隊の予科練習生を題材にした「若鷲の歌」だ。東宝映画「決戦の大空へ」の主題歌で、古関は作詞担当の西條八十と茨城県の土浦海軍航空隊に一日入隊し若き航空士を取材した。そして「若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨(いかり)~」の歌詞が生まれた。劇中では第17週(5~9日)で経過が描かれる。

 古関は作曲に苦しんだようで、最初は長調の曲を作った。出来に納得できないまま同航空隊で曲を披露する9月15日を迎えた。道中の常磐線の車中で突然、短音階のメロディーが浮かんで曲に仕上げた。到着後、教官に両方を聞かせると長調の曲を選んだが、練習生に聞かせて決めることになった。全練習生を練兵場に集めて聞かせたところ、ほとんどの生徒が短調の曲を支持した。古関は自伝で「単純で明快、短調でありながら暗さのない曲が少年たちの胸に飛び込んでいった」と振り返る。

 戦友思い出す

 長調か、短調か。選曲に立ち会った当時の練習生が本県にいる。須賀川市の石井辰美さん(93)は当時の様子を語る。「あのときのことは今も覚えている。古関さんらもいる中、夕方に練兵場で曲が発表された。中佐が『後の曲(短調の曲のこと)がいい者』と問い掛け、練習生のほとんどが握りこぶしを真上に突き上げた。自分もその一人。曲には練習生の訴えたい心情が表現され、魂が揺さぶられた」

 石井さんはいわき市四倉町生まれ。旧制磐城中(現・磐城高)卒業後、零戦パイロットになって国や家族を守ろうと43年に航空隊に志願入隊した。予科練での生活や訓練は過酷で海軍軍人として"立派に散る"ことも教え込まれた。苦しい日々の中、「若鷲の歌」は石井さんの心を慰め、奮い立たせた。45年2月に実施部隊に配属された。戦況が不利になると、飛行機に爆弾を積んで敵艦に体当たりする「特攻」が始まる。石井さんは主に偵察が役目だったが、いつ特攻命令が下るか覚悟する日々が続いた。石井さんがいた岩国海軍航空隊(山口県)の基地で別の基地にいた同期生に会った。同期生は「特攻隊として出撃する」と告げた。戦死を知ったのは戦後だった。石井さんは特攻隊に召集されることがなく終戦を迎えた。「今も命を落とした戦友を思い出す。若鷲の歌を聞くと涙がこぼれる。鎮魂歌でもあるんだ」

 戦後、石井さんは教員の道に進む。周囲は師範学校を卒業した人ばかりで、経歴に引け目を感じた。通信教育で教員免許を取得したが、いつしか予科練の経歴は隠さないことに決めた。「自分の歩んだ道を否定したくなかったし、それが戦友への鎮魂になると考えたから」。県内の予科練出身者でつくる会にも入った。今は開催されなくなったが、年に1度の親睦会では「若鷲の歌」を必ず歌った。「毎回、仲間との絆を感じながら腹の底から歌ったなぁ」

 古関の戦時歌謡を歌うとき、兵士は古里を思い、残された人は安否を心配した。心を打つ古関メロディーだったからこそ歌い継がれた。