【エールのB面】裕一の弟役・佐久本宝さん 『嫌われる』覚悟だった

 
福島市で18日に行われたイベントでドラマのワンシーンを振り返る佐久本さん

 朝ドラ「エール」で、主人公の裕一(窪田正孝さん)とは対照的な存在として描かれてきたのが弟の浩二だ。夢を追って上京した裕一に対し、浩二は福島で家族のために人生を歩んだ。感情豊かな浩二役を熱演し注目される佐久本宝さんに役への思いなどを聞いた。併せて、主人公のモデルとなった古関裕而の実際の弟弘之(ひろし)さんの人生にも焦点を当ててみたい。

 うれしい反応

 浩二は家業を立て直そうとするが、父三郎(唐沢寿明さん)に認めてもらえず屈折した思いを抱く。作曲家を目指す兄裕一には反発した。
 「浩二は、常に家のためを思って生きている芯が強い人。前半は怒ったり、反発したりと嫌な役回りだったので、思い切って『嫌われるような役になろう』と考えて演じていました。それが、意外にも『共感した』『良かった』といったうれしい反応が寄せられ、大変驚いています」

 兄へのコンプレックスや妬(ねた)みなど複雑な感情にとらわれる。「周りの愛を当たり前だと思うなよ」と兄に感情をぶつけ、父と本音で語り合って泣きじゃくるシーンが印象的だ。
 「怒りの演技でも違いをつけていました。例えば(浩二の)学生時代は兄に対する『単純な怒り』を表現しています。その後は、夢ばかり見ている兄への『あきれたような怒り』をするようにしました」

 浩二は店を継ぐが、やがて閉店。福島に残り、役場に勤めて地元のために奮闘する。心境の変化はあったのか。
 「前半は家族に反発するような演技が多かったんです。けれども養蚕農家の畠山(マキタスポーツさん)にリンゴ栽培を説得するあたりから、自分が出せるようになりました。後半からは視聴者が安心するような演技を心掛けている。つらい場面が多い戦争編では、自分の登場シーンでほっと一息つける『ブレークタイム』のようになればいいなと考えていました」

 楽屋も『福島弁』

 自然な福島弁でキャラクターにリアリティーを与えた。沖縄出身だが東北弁は難しくなかったか。
 「最初は難しかったが、福島弁と沖縄の言葉の抑揚が似ていることに気付きました。古山家の登場人物はそれぞれの方言が少し違うんです。人物の背景を考えているためだそうで、浩二は都会育ちを表現しています。楽屋では皆さん福島弁で話していました。二階堂ふみさんまで『おめぇ早く嫁さんもらえよ』などと福島弁で話していました。ちなみに好きな福島弁は『さすけねぇ』です」

 中高時代、沖縄の伝統舞踊「組踊(くみおどり)」をベースにした舞台「現代版組踊」に出演。会津のチームと関わり、俳優デビュー後も稽古に参加するなどゆかりがある。
 「会津地方に滞在して、一緒に踊りを作ったりしました。『エール』に出演することを伝えたときも応援してくれて、今日(福島市のイベントに参加した18日)も会場に来てくれている。組踊に取り組んでいた中高生の頃の夢は看護師でしたが、今、こうして役者をやっているのが不思議でたまらないですね」

 屈折した態度のシーンが多く、母まさを演じた菊池桃子さんが本当の母親のように心配していると聞いた。
 「本当のお母さんみたいな存在ですね。年齢を重ねたまさを演じる菊池さんと撮影に臨んだのですが、現場で菊池さんの歩く先に段差があったので、ついつい手を伸ばして支えようとしたら、『実年齢は若いから』って言われてしまいました(笑)」

 第二の古里に

 最後にゆかりが深い福島県民へメッセージを。
 「福島の皆さんの熱い『エール愛』を感じています。福島は居心地が良くて、空気が澄んでいて、すてきな場所。何より福島の人は温かく、第二の古里のように感じています。クライマックスを迎えていく『エール』ですが、まだまだ福島が登場しますので楽しみにしてください」

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 さくもと・たから 1998年、沖縄県うるま市生まれ。2016年に映画「怒り」でデビューし、第40回日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。ドラマ「3年A組―今から皆さんは、人質です」「ニッポンノワール―刑事Yの反乱」などに出演した注目株。22歳。

 「実際は仲良い兄弟」 裕而のおい・古関隆太郎さん 

 古関裕而と5歳違いの弟の弘之さん(1914~91年)は旧制福島中、東京高等工芸学校(現・千葉大)を経て、東京のガラス工芸会社に就職。裕而宅に下宿していたこともある。母が44年8月に亡くなったことを機に郷里に戻り県職員となった。

 福島市飯野町出身のサタさんと45年に結婚し、翌年に長男隆太郎さん(74)=茨城県阿見町在住=が生まれた。県職員時代、会津若松市にある出先機関に勤務した際は会津漆器の振興に関わった。50代前半で退職し再度上京しデザイン会社に就職。晩年は茨城県阿見町で暮らした。

 「父(弘之さん)と伯父(裕而)は仲の良い兄弟。晩年まで『兄ちゃん』『ひろちゃん』と呼び合った」と隆太郎さん。劇中の描写から実際も仲が悪かったと勘違いされることが多いとし「弟ってとこは合ってるけど、あとはほぼ違う。佐久本さんの演技は素晴らしいけど」と苦笑いを浮かべた。 弘之さんは幼少から絵が得意で、就職後も合間を見つけては風景や花々、知人の肖像を描いた。晩年は阿見町内で個展を開いたりしていた。音楽も好きで楽器はフルートを演奏した。学生時代や就職後も音楽団体に所属していた。

 隆太郎さんは裕而とは幼少期から何度も顔を合わせた。中学生のとき、裕而と2人でかつての実家の呉服店「喜多三」前を歩いたとき、「ここに家があったんだよ」と教えられたことを覚えている。「(裕而は)優しく寡黙な人だった。一時的なブームに終わらず、功績が後世まで語られるようになればいい」と願った。