東京芸大時代は朝から晩までコントラバスの練習に打ち込んだ。大学4年から日本フィルの研究生として定期演奏会に出演し始め、卒業後に入団した。月給は5万円。同年代の社会人の月給が1万1、2000円だったから、私は非常に恵まれていた。しかし2年後、その立場を手放し、私は米国留学を決める。同僚からは「日本で十分暮らせるのに、なぜ苦労する米国に行くのか」と不思議がられた。 「将来は米国に行く」と、私は中...
この記事は会員専用記事です
残り643文字(全文843文字)
続きを読むには「みんゆうプラス」の会員登録もしくは
「福島民友新聞購読」の申し込みが必要です。