自分の演奏が米国で通用するかどうか、という不安は全くなかった。マンハッタン音楽学校もジュリアード音楽院でも、首席を任され、自信がついた。卒業後は厳しい競争のニューヨーク(NY)で、コントラバスのトップ5に入るとの評価も得た。音楽家として軌道に乗った、と言えるだろう。 1967年にアメリカ交響楽団員となり、71年にジュリアード音楽院を卒業。同年にNYシティ・オペラ管弦楽団の正団員となった。演奏中は...
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