大内さん「古里思う若い人戻れば」 再びにぎわう山木屋の姿待つ

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6月中のオープンを目指し、整備が進む山木屋の復興拠点「田んぼリンク」

 川俣町山木屋は田んぼリンクの氷も解け、春の足音を少しずつ感じるようになってきた。リンクの奥では6月中のオープンを目指し、復興拠点として整備される商業施設の建設が進む。「塩の道」とも呼ばれ、江戸時代から浜通りと中通りを結ぶ道の中継点だった山木屋。地区内では改修された家屋もあれば、解体された家屋もある。住民約1200人の苦難と希望が交錯した6年間を経て、3月31日の避難指示解除を迎える。

 用事はなるべく一度 愛犬との散歩が日課

 【大内秀一さん】「ワンッワンッ」。氷点下の川俣町山木屋に朝を告げる声が響く。声の主は、秋田犬の「シロ」と「ユキ」。昨年1月から「準備宿泊」に登録し、自宅で1人暮らしをしている大内秀一さん(68)の愛犬だ。避難指示解除まで残り約1カ月となった2月下旬、山木屋の住民はどんな暮らしをしているのか。大内さんの一日に密着した。
 一日は愛犬の散歩から始まる。愛犬が鳴き出すのは決まって午前6時ごろ。「散歩に連れてけって言ってんのか」。防寒対策を整えて、せかす愛犬の元へ急ぐ。「まだまだ冷えるな」。自宅前の田んぼの周辺を約30分かけて歩く。
 朝食を終え、車で約12キロ離れたかかりつけの町内の病院へと向かった。健康状態を確認し、高血圧や糖尿病など数種類の薬を受け取ると次は食材の調達。立ち寄ったスーパーで、野菜や肉、魚などを次々と買い物かごに放り込む。「3~5日分はまとめて買っとかないと」。用事はなるべく一度に済ませるようにしている。
 自宅へ戻る途中、日中なのに車の通りが少ないことが気になった。「除染作業員がいた時はにぎわってたけどなあ。これから(避難指示解除後)はこんなもんだべ」。自宅前を通る国道114号を見つめ、大内さんは切なそうだ。
 午後3時すぎ、大内さんが再び愛犬と散歩に出掛けた。山木屋の復興拠点の建設が進む川沿いを歩きながら「ここはな、川の水はきれいだし、夜は星空もいいんだぞ」と語る。大内さんが中心となり管理する「田んぼリンク」も山木屋の自慢だ。多い時は年間3000人が利用し、国体選手を53人輩出した。「ただの田舎じゃない。すごいところに住んでるんだ」。言葉に郷土愛がにじむ。
 夕食を済ませ、晩酌する大内さんがおもむろに口を開いた。「避難生活が長くて体力はもうないから自分が主導で何かはできない。でも、『これからの山木屋をよくしたい』っていう若い人が戻ってくればなって思う」。世代を超えた交流が盛んだった古里の姿を思い浮かべながら、山木屋に再びにぎわいが訪れる時を待っている。

 トルコギキョウに希望 通い農業を選択

 【菅野さん夫妻】川俣町山木屋でトルコギキョウを栽培するあぶくま農園の菅野洋平さん(38)と愛さん(39)夫妻は、同地区に「住まない」選択をした。「不便は気にしない。けど、子どもの教育を考えると...」。古里に戻る人が少ないことが想定される山木屋での学習環境を不安視し、川俣町の別の地区から山木屋に通う生活を送っている。
 2010(平成22)年4月、東京の運送会社を辞めて山木屋の実家に戻った洋平さん。父で社長の洋一さん(65)と母波子さん(61)を手伝いながら、トルコギキョウ栽培を学び始めた。11年に震災が発生、愛さんの母の実家がある群馬県への避難を余儀なくされた。
 14年の営農再開に合わせて、洋一さんと波子さんは準備宿泊で山木屋での生活を始めたが、洋平さんと愛さんは町内の別の地区に居を構えた。卸先の東京の市場で「避難指示の地域で育てた花が本当に売れるのか」と風評被害が脳裏をよぎることもあった。市場に大歓迎で受け入れられた出荷の日は忘れられない。
 洋平さんは「父が作り上げてきたものを絶やしたくない」と来る日も来る日も山木屋に通う。徐々に菅野さん夫妻の仕事は増えたが、今年は人手不足から作付けを減らす予定だ。
 「(地区外の)他人も入ってこられる」と山木屋の避難指示解除を評価する愛さん。夏に咲き誇ったトルコギキョウが一人でも多くの「他人」を引き寄せてほしいと期待を込め、二人は希望の種をまく。

 「食堂」開店を目指す 百貨店から『憩いの場』へ

 【紺野さん夫妻】山木屋で日用品販売などを手掛けていた杉田屋が食堂として復活する。「地域のおかげで商売できた。地域のためにもうからなくてもいい」。紺野希予司さん(65)、まり子さん(62)夫妻は6月ごろの食堂オープンを目指し、準備を進めている。
 週末の昼に3日ほど営業する計画だ。ざくざく煮や天ぷら、ぼた餅など。まり子さんを中心に地元の"お母ちゃん"たちが調理した郷土料理を提供する店舗を描く。
 「飽きないよう日替わり店舗が売りの一つ」。紺野さん夫妻が飲食店を営む友人らに日替わりで出店してもらい、ラーメンや丼物を提供することを計画している。カラオケも置き、お茶飲みの場にしてもらう。「2、3人でもゆっくりできる店にしたいと思っている」と意気込む。
 「おじいちゃんが作り、何でも売っていた。杉田屋百貨店と呼ばれたこともあったんだよ」。紺野さんの祖父が戦前に開店した「杉田屋」は日用品や食料品はもちろんのこと、空気銃の弾から位牌(いはい)まで売っていた。
 原発事故で「杉田屋」は休業した。紺野さん夫妻は避難しながら日用品販売とは別に経営していた畜舎の電気工事業を営んできた。昨年夏には山木屋に電気制御盤を製造する工場を稼働させた。一方で、「おじいちゃんら先祖はのれんを残してほしいと思っているはず」という思いが常にあった。
 紺野さんは電気工事業の代表権を次男に譲り、先祖伝来の店を守る決意をした。避難指示解除に合わせ、紺野さんは夫妻で山木屋に戻って生活しながら準備を進める予定だ。「避難して6年は長い。戻ることを望みながら亡くなった人も多い。食事したり、お茶を飲みながら話してすっきりしてもらう店になればと思う」。杉田屋が地域住民が憩える場所になる。