「生半可では何もできない」 ふたばが決意の新社屋、業務を再開

 
再開通に向けて除染や整備作業が進められているJR常磐線夜ノ森駅

 【建設コンサルティングふたば】震災、原発事故に伴い郡山市に移転していた建設コンサルティング・測量などの「ふたば」が、4月1日の避難指示解除に合わせて早ければ6月にも富岡町に本社機能を戻し、新社屋で業務を再開する。
 「町では(復興への)長い道のりを歩まなくてはならず、生半可では何もできない。富岡に社屋を建てるということはそういう覚悟が必要だ」。社長の遠藤秀文(しゅうぶん)さん(45)は町内での業務再開に向け決意をにじませた。
 震災、原発事故で、遠藤さんは家族と共に避難した。県内外で避難生活を送る中、会社の創業者であり、当時の町長だった父勝也さんから送られた「会社は復旧で必要な存在となる。一日も早く再開しろ」との言葉をきっかけに業務再開へと動きだし、町の役場機能が置かれている郡山市での事業再開を決めた。
 震災前は測量業務が中心だったが、「古里に戻るまではどんな仕事でもやろう」との思いから仕事の幅を広げ、海外のコンサルティングも手掛けるようになり、現在ではツバルやモーリシャスなどのプロジェクトにも参加する。富岡の新社屋とは別に郡山市に社屋を建設、海外事業などの拠点としていく。
 「海外のプロジェクトは広域的に取り組むため視野が広くなる。福島についても客観的に見られるようになった」と遠藤さん。「いかに魅力的な町をつくれるか。魅力的な町になれば若い人も集まってくるはずだ」。遠藤さんは事業を通じて古里の再生に力を尽くすつもりだ。

 心とおなか...満たす

 【いろは家】帰還した住民や復旧・復興工事に当たる作業員の買い物の場所として、富岡町小浜の国道6号沿いに昨年11月、先行開業した公設の複合商業施設「さくらモールとみおか」。フードコートに入る地元3店舗のうち定食店「いろは家」は、しょうが焼きや唐揚げ、豚カツ、塩サバなどの各種定食に加え、うどん、そばと豊富なメニューをそろえ、来店者の心とおなかを満たしてきた。
 店を切り盛りする大河原宗英さん(53)は夜の森地区で居酒屋を営んでおり、震災前にさくらモール近くの曲田地区に移り、店を構えたばかりだった。
 震災と原発事故後は大玉村の仮設住宅にある仮設店舗で働いたが「いつか富岡に戻りたい」。さくらモールの出店に合わせ、定食店に衣替えして再出発を決意した。
 開店から約4カ月。経営環境は厳しいが、売り上げは徐々に伸びており、30日の全館オープンによる相乗効果にも期待する。避難先のいわき市から通う毎日でも顔なじみの人に会えることにやりがいを感じる。
 4月1日の避難指示解除を見据え、大河原さんは切に願う。「多くの人が気軽に立ち寄り、顔を合わせて食事や買い物、会話を楽しむ場所になってほしい」

 先祖供養しなければ

 【松本さん夫妻】「富岡は生まれ育った場所。先祖もいる。自分が先祖の供養をしなければならない」。三春町にある熊耳応急仮設住宅で避難生活を送る松本政喜さん(69)は帰還を決めた町民のうちの一人。決意とも取れる古里への思いを口にした。
 富岡に戻ることを決めたが、一時、町外に移住することも考えた。次女夫婦と共に町外に自宅を新築して同居する計画があったが、次女の仕事の都合などですぐに実現できなかったため、家族で話し合いを重ね、富岡町で妻と2人で暮らすことを選択した。
 「妻も、先祖から受け継いだ土地を守ろうと言ってくれた。一人では決断できなかった」とする。富岡町小浜にある自宅はリフォーム中で、改修終了後の4月中にも戻るつもりだ。
 仮設住宅では自治会長を務め、地区の盆踊りを復活させるなど住民の交流に努めた。「しばらくして仮設住宅で暮らした町民が(仮設のことを)思い出し、楽しかったと言ってもらえたら」と話す。古里に戻ってまずやりたいことは日課にしていた家庭菜園だ。「妻から『あなたの作ったトマトを食べたい』と言われている。また野菜を作りたい」と笑顔を見せた。

 衣料品店保存を快諾

 【大原さん】避難指示が解除されても帰還をためらったり、諦めた町民もいる。郡山市に避難する大原弘道さん(80)は「帰りたくても帰れない」と苦渋の表情を見せた。
 富岡町では老舗の衣料品店「大原本店」を経営していたが、家族の都合や後継者問題などから郡山市に自宅を新築した。大原さんによると、富岡の中央商店街にある店舗のほとんどが解体を申請し、「店を再開する人は少ないのではないか」という。
 大原さんは町に戻らないながらも、古里のためにできる限りの貢献がしたいと考えている。
 大原本店の隣に立つ旧店舗は1935(昭和10)年に建てられた、当時は珍しかったれんが造り。震災前は貸事務所にしていた。震災で大きな被害を受けたため、大原さんは解体を申請したが、昭和初期の町の様子を伝える貴重な建物として町から保存の申し出があったため、快く応じた。町は現在、保存に向けた準備を進めている。
 「かつてあった商店街を含む町の姿を旧店舗から発信、継承していく(次世代の)人たちのために何らかの形で役に立てば」。大原さんは古里の姿を思い浮かべた。